いつも何かに怒っているプンスカが何か怒っているぞ。む。マスクねこが気が付いた、ダメだ、マスクしてないし、社会的距離が近すぎる!
五月になりました。メーデーです。昔はパレードとか盛んだったなあ。いまはどうなんでしょうか。治安や医療や交通や飲食の人と違って、肝冷斎は明日は休みです。だんだん心がのどかになって、怒りのキモチが無くなってくるなあ。
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怒ってはいけません。
宋の時代のことです。あるお役人が、広東の聖地・羅浮山の道観(道教のお寺)を視察に訪れた。
都虚観という建物から、長寿庵に向かう途中、
覩見道室数十間、有道士拠檻坐。
道室数十間を見るに、道士の檻に拠りて坐する有るを覩たり。
この「檻」は「おり」ではなく、「欄干」の意味。「折檻」の「檻」です。
道士の棲む小部屋が何十かあるのを見たが、その中に、道士が欄干にもたれて座ったままでいるのを見かけた。
その道士は、
見吏不起。
吏を見るも起たず。
役人と目があったが、立ち上がりもしない。
たいへん失礼である。
「怪しからん! 国家を代表する立場にあるのじゃぞ」
吏大怒、使人詰之、至則人室皆亡矣。
吏大いに怒り、人をしてこれを詰らしむるに、至ればすなわち人室みな亡かりき。
役人は大いにお怒りになられて、お付きの者に命じてどういうつもりか詰問させようとした。「わかりました」とお付きの者はその部屋に行ったのだが・・・、どういうわけか、そこには、その人も部屋もなかった。
「!?」
乃知羅浮凡聖雑処。
すなわち羅浮、凡聖の雑わる処なることを知れり。
このことから、羅浮山は、一般常識の世界と高次元の世界とが交錯する空間であることがわかるであろう。
こんな「時空のはざま」がこの世にあること自体は、不思議でもなんでもありません。
不思議なのは、
似此等異境、平生修行人有不得見者、吏何人、乃独見之。
此れらの異境のごときは、平生の修行人の見るを得ざるもの有るに、吏のなにびとか、すなわち独りこれを見るや。
こういう不思議な場所というのは、普通の修行をしたぐらいのひとにはまず見ることができないものなのに、この役人が一体なぜ見ることができたのだろうか、ということである。
こいつは、
正使一凡道士見己不起、何足怒。吏無状如此、得見此者必前縁也。
まさに一凡道士をして己を見て起たざらしむるも何ぞ怒るに足らん。吏の状無きことかくの如きも、これを見るを得るは、必ず前縁のあるならん。
たとえ本当に、一人の大したことない平道士が、自分のような政府のお役人を見ても起立しなかった、としても、何で怒る必要がありましょうか。この役人のどうしようも無いやつなのがわかります。そんなやつが「時空のはざま」を見ることができた、というのは、彼が生まれる前になんらかの原因があったのだ、と考えざるを得ますまい。
このことからも、仏法の因果説が成り立つことがわかります。
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宋・蘇軾「東坡志林」巻二「異事」上より。東坡先生の文章はわかりやすくてオモシロいですね。しかし、わたしでさえ何度か不思議な経験があるぐらいなので(そんな経験なんか無かった!と思い込めば無いんですが)、この役人みたいな怪しからんやつでもそういう経験するんだと思います。そして、この人も、それから以降「なんと不思議なこともあるものよ」と内省して、だんだん怒らなくなって、なんかあっても「まあいいか」ぐらいしか言わなくなってしまったかも知れません。
それでもチャイナ共〇党の情報隠しには怒ると思いますが、我が国にはそうでないひともいますね。
ちなみに、郵便受けを覗いたら、これが来てました!
ぴかぴかです。うれしいな。おいらもこの国の仲間なんだな。欲を言えば、休日前の肝冷斎のように「しあわせ」なひとはそんなにいないと思いますので、ぜひ総理のメッセージとか困ったときの相談はこちら一覧表とか、つけてくれるといいのになー。