令和2年4月27日(月)  目次へ  前回に戻る

「お、おそろしいオバケたちが現れたので腰が抜けて逃げられないのでぶ、抵抗するつもりなどまったくないのでぶー!」

平日です。PCの調子が回復してきたかな? しかしコロナ対策は何もできないので、できるひとにお願いするしかありません。

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乾隆六十年(1795)、湖南の少数民族・苗族が反乱を起こした。

この時、湖南の辰沅州という辺境の県令を務めていたのは、浙江・山陰の傅鼐(ふ・だい)、字は重菴というひとで、彼は

由吏員起家。

吏員より起家せり。

もとは胥吏といわれる地方世襲の小役人の出身であった。

明代までなら科挙の受験資格も有しない身分でしたが、清朝では良民として科挙も受けることができます。ただ、このひとはそういう試験の方ではなく、シゴトができる人だったので、吏員から出世して県令にまでなったひとであった。

近隣で反乱が起こったと報せが入ると、傅県令は、「湖南の官軍による防衛はムリだ」と判断した。事実、官軍は散在していた兵力を、湖南の首府である筆者の郷里・武陵の町に集中させたので、辰沅のような辺境は全く見捨てられたのである。

傅は、

団練郷兵、捍禦苗匪。

郷兵を団練して、苗匪を捍禦す。

土地の若者たちを集めて軍事教練を行い、彼らによって苗族の反乱者たちから防衛させることにした。

さらに、傅鼐は他の県令らが逃亡・避難して指揮者がいなくなった近隣の永順道一帯に、

設立寨堡、概傚古人防辺規制、五里大堡、十里一城、屯兵羅居城中。

寨堡を設立し、おおむね古人の防辺の規制に倣い、五里に大寨、十里に一城して、屯兵を城中に羅居せしむ。

防寨やバリケードを設けさせた。

「ど、どういうふうに作るもんなんですか?」

「わしも知らんから、今勉強しておる」

と、歴史上の記録から、北方の異民族防衛のための規則を抜き出して、これを真似て、五里(≒3キロ)ごとに大型のバリケードを築き、十里(≒6キロ)ごとに駐屯地の砦を設営させ、郷兵たちをその城の中に詰めさせた。

一方、指揮命令系統を整備して、指示に乱れが無かったから、

令無不行、教無不習。

令の行われざる無く、教えて習われざる無し。

命令はよく守られたし、教練は浸透した。

官軍が遺棄していった兵器も惜し気なく使わせたので、

諸苗人畏之如神。

諸苗人のこれを畏るること神の如し。

苗族どもは、郷兵らを見ると、まるで鬼神が現れたかのように恐れおののいた。

かくして永順道一帯には反乱による被害はなく、やがて苗族も帰服し出して、事件は落着したのである。

自撤兵後、郷兵口分無措、遂行均田法、撥各県富民田若干畝、令郷兵屯種、且耕且練、独成勁旅。

撤兵より後、郷兵の口分措(お)く無く、遂に均田の法を行い、各県富民の田若干畝を撥して、郷兵に屯種し、かつ耕しかつ練らしめ、ひとり勁旅と成せり。

軍事活動が終わった後で、郷兵たちの定職について、地元では何の措置も無い。そこで、傅はいわゆる「均田法」について調査し、各県で郷兵らに守られた富農たちから所有の田地をいくらか寄附させて、これを郷兵たちに分け与え、彼らに屯田をさせ、耕作させながら教練もさせて、よそにはない強力な軍隊を作り上げたのである。

「団練」はこれより50年ほどの後、太平天国に対して湖南の曾国藩らが湘軍を編成して本格化するが、その先鞭は傅がつけたのだ。

・・・さて、物事が落ち着くと、当然、いろいろ議論が起こった。

「傅某の行為は、一県令として越権である」

「その功績、目をみはるモノがあり、賞揚すべくして批判さるべきものではない」

「軍事は賞揚すべきも、民の田を取り上げたのは問題である」

などなど、結局は、逃亡した他の県令たちの責任を問わないためもあって、他県において越権行為を行ったものの、自分の所管内ではよくこれを守ったとして、処罰を受けることは許されて、郷里に帰ったのであった。

―――その後、

近日諸苗寨帖服、居民楽業。

近日、諸苗寨帖服し、居民業を楽しめり。

近年、この地方では苗族の山村は安定して服従しており、一般民衆たちはその生活を楽しんでいるのである。

そして、湖南・武陵の町で、わたしが聞いたところでは、

於辰州境建一生祠、供奉禄位牌、上懸銅鏡、祠前開池一区。

辰州の境に一生祠を建て、禄を位牌に供奉して、上に銅鏡を懸け、祠前に池一区を開けり。

辰州の県境あたりに、生き神さまとして傅鼐を祀る神社ができ、神様としての位牌に奉納物をお供えしているというのである。そして、祠の上には銅製の鏡を懸け、祠の前には一画の池を作った、ということだ。

「銅鏡と池。どういう組み合わせですか」

ちょうどその州のひとが武陵の町に来ていたので訊いてみた。すると、彼はにこりと笑って言った、

意云、清如水、明如鏡、耳。

意は、「清なること水の如く、明なること鏡の如し」と云うのみ、と。

「そのこころは、(傅県令のように)「清らかなことはこの水のようであり、明察なることはこの鏡のようであれ」というだけなんですよ」

と。

祠の額にこの六文字を書いてもらおうと、浙江に隠棲している傅鼐のところに、使いが送られている、ということであった。

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清・趙慎畛「楡巣雑識」下巻より。著者はこの事件のときは北京で中央官庁勤めしていたのですが、その後帰郷して傅鼐の活躍を知ったようです。シゴトできるひとは傅鼐さんのように、がんがんやってください。それにしても、

清如水、明如鏡。

清なること水の如く、明なること鏡の如し。

は、わかりやすくてしかもかっこいいので、為政者のみなさんは真似してくださるといいのだが。

 

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