平成32年1月12日(日)  目次へ  前回に戻る

「なにか(世俗の)いいことがある!」というだけで、「コケ―!」「ピヨ」「ピヨ」「チュー!」と駆けだすのだ。もし本当の悟りなどが得られるなら、これ以上に急ぐであろう、と思わるが・・・みなさんはどうですか?

肝念和尚はどこかに身を隠したまま、更新だけは続けているようである。

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昨日、仙人どものいる山に行ってきましたので、その感想を詩にしてみました。ちょっと長いけど、まだ明日も休みだから読んでみます。

昨到雲霞観、 昨(きのう)雲霞観(うんかかん)に到り、

忽見仙尊士。 忽ち仙尊士に見(まみ)えたり。

「雲霞観」という「観」(道教のお寺)は伝説等で出て来るわけではないのですが、いかにも仙人の住んでいそうなところです。

 昨日、雲と霞の向こうにある道教寺院まで行ってみたところ、

 思いもかけず、尊敬すべき仙人のみなさんにお会いしたんじゃ。

星冠月帔横、 星冠に月帔(げつひ)横たえ、

尽云居山水。 ことごとく云う、「山水に居れり」と。

 星の冠を、月のたれぎぬで縛り、

 みな言う、「わしらは俗世を離れて大自然の中に棲んでいるんじゃ」と。

そこで、わしはみなさんに訊いてみた。

余問神仙術、 余問う、「神仙の術は

云道若為比。 道を云うに比すること若為(いかん)ぞ」と。

 わしの質問は、「神仙の術といいますのは、

 本当の真実の方法とどれぐらい違うのですか」。

「ほにょほにょ」

とみなさんは答えた。

謂言霊無上、 謂言(おもえ)らく、「霊無上にして、

妙薬必神秘。 妙薬は必ず神秘なり。

守死待鶴来、 死を守りて鶴の来たるを待ち、

皆道乗魚去。 魚に乗りて去る」と皆道(い)えり。

「そうですなあ・・・。(神仙の術は)霊的で最高のもので、

 (そこで作られる)すばらしい薬物は、絶対に神秘的な効果がありますな。

命のあるかぎり、周の王子喬のように鶴がお迎えに来るのを待ち、

あるいは古代の赤鯉子・琴高のように魚に乗ってどこかに去っていくのです」と口をそろえる。

本当にそうなのかなあ。

余乃返窮之、 余はすなわち返りてこれを窮め、

推尋勿道理。 推尋するに、道理勿(な)し。

 わしは帰って来て、このことを窮究し、

 推理し考え尽くしてみたところ、これは・・・

間違っているぞ!!!

但看箭射空、 ただ看る、箭を空に射るも、

須臾還墜地。 須臾にして地に還り墜つるを。

 矢を空に向かって射てみても、

 あっという間に地面に戻って来て落ちるではありませんか。それと同じだ。

饒你得仙人、 饒(たと)い你(なんじ)仙人たるを得るとも、

恰似守屍鬼。 あたかも守屍鬼に似たり。

 たとえおまえさんが仙人になれたとしても、

 結局のところ、(自分の肉体という)しかばねを大切に見守っている精霊とまったく同じである。

外から服用する仙薬なんか、不老長生をもたらすと言ったって、それは人生の苦しみを長引かせるだけなのだ。

心月自精明、 心月自ずから精明、

万象何能比。 万象何ぞよく比せん。

欲知仙丹術、 仙丹の術を知らんと欲せば、

身内元神是。 身内の元神これなり。

 心という月は、もとから細やかで明るい。

 どんなものも比べようがないほどに。

 仙薬を服用する術を知りたいならば、

 おまえの体内にもとからいる「元神」こそ、永遠の知恵をもたらすのだ。

仏法の「無常」こそそれなのじゃ。

莫学黄巾公、 黄巾公を学びて、

握愚自守擬。 愚を握りて自ら守り擬することなかれ。

「黄巾公」は、後漢の終わりごろ、道教の一派を起こした張角が、自分たちの仲間の徴に黄色い巾をつけて叛乱を起こしたことから、張角(のように現世に影響を及ぼそうとする考え)を指す。

 黄巾を附けた張角さまの真似をして、

 ばかげた信念を握りしめて、自分が正しいなどと思い込んではならんぞ。

・・・と思いました。

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「寒山集」より。実は肝念和尚ではなくて、寒山さまの詩でした。ふつうの人なら仙人に遇ったら「すごい、仙人さまじゃ」と感激して、その教えに洗脳されてしまうものですが、さすがは寒山さまじゃ、騙されなかったんです。仙人にも騙されないのだ、世俗の成功や幸福に縛られるはずがないであろう。

 

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