令和元年10月15日(火)  目次へ  前回に戻る

かぼちゃ城攻略ゲームはこんなふうになっています。ああオモシロそうだなあ。

どんどん台風の被害が明らかになってきました。福島の被害が大きいみたいです。

今のところわたしにやれることも無いので、今日も淡々と更新しますが・・・。何かしなければいけないような気もする。

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太原の孚上座という経歴のあまりはっきりしない禅僧がいます。唐末の名僧・雪峯義存(822〜908)の弟子に数えられている(実際には雪峯が師であったことは間違いないが、その弟子たちから仲間うちと認識されていたかは疑わしい。「上座」であり、一つの寺の長である住持になったことはない人である)ので、彼も唐の終わりごろから五代にかけてに生きたひとであろうと思われます。

生きて、そろそろもうおしまいかなあ、というころ、上座は若いころに住んでいたらしい揚州で、陳尚書という役人(退官しているひとだと思いますが、あるいは現役かも知れません)の在家信者の家に世話になっていた。

一日謂尚書云、来日講一遍大涅槃経、報答尚書。

一日、尚書に謂いて云わく、「来日、一遍に「大涅槃経」を講じて、尚書に報答せん」と。

「大涅槃経」は「大般涅槃経」四十巻、おシャカさまが亡くなる(涅槃に入る)直前に説法なされたという(フィクションになっている)お経です。すなわち(フィクションですが)おシャカさまの最後の説法ということになります。孚上座は若いころこの涅槃経の講師としてこの揚州の町で名を馳せていたらしいんですが、その後、禅の修行に入ったといわれ、この陳尚書はその若いころからの知り合いだったのではないか、とする論者もあります(柳田聖山「禅の遺偈」潮文社・昭和48)。

ある日、上座は陳尚書に向かって言った。

「明日、「大涅槃経」四十巻を一遍に講義して、おまえさんの日頃の供養に報いたいと思うんじゃ」

「ほう」

陳尚書は若いころから上座を知っておりますので、なんとなく何をしようとしているのか分かっただろうと思いますが、

「それはありがたいことじゃ。それでは知合いを集めてありがたくお聞きしよう」

と引き取って、上座を知っているひとたちに広く声をかけた。まるで葬儀のお知らせのように。

尚書次日致斎、煎茶畢。

尚書、次日斎を致し、茶を煎畢(おわ)れり。

尚書は翌日、精進料理を出し、お茶を煮だして準備を整えた。

師遂昇座、良久、揮尺一下、云如是我聞。

師遂に座に昇り、やや久しくして、尺を揮うこと一下、云わく「如是我聞(我、かくの如く聞けり)」。

禅師は、やがて講座に上られ、しばらく無言の後、ものさし(を手にしていたらしいんです)を一回振って、言った。

「わたしはこのように聞いた・・・」

「如是我聞」(にょぜがもん)はほとんど慣用的にお経の冒頭に出てくるコトバです。だいたいお釈迦様の説いたお経は、侍者のアナンダが第一回仏典結集のときに自分の記憶していたところを述べた、という形をとっている(フィクションですが)ので、冒頭に「わたしはこのように聞いた」というコトバがあるわけです。

さて、孚上座はそこでコトバを止めて、

乃召尚書。

すなわち尚書を召す。

そこで、陳尚書に「こちらへ」と声をかけた。

尚書応諾。

尚書、応諾す。

尚書は「はい、まいります」と答えた。

尚書が立ち上がろうかどうかとしたとき、上座はまた言った。

一時仏在。

一時、仏在り。

そのとき、ブッダはおられた・・・。

「一時仏在」はお経の冒頭に、「如是我聞」に続けて一般に出てくるコトバです。後ろに祇園精舎、霊鷲山など、おシャカさまが説法をした場所が続きます。アナンダの記憶のコトバとして、「如是我聞(わたしはこのように聞いた)」「そのとき、ブッダは〇〇の地におられて・・・」と続いているわけです。涅槃経では、〇〇にはブッダが最期を迎えられるクシナガラの地が指定されます。

ここまで言って、禅師は、

乃脱去。

すなわち脱去せり。

そこで、死んだ。

「禅師が亡くなりましたぞ!」

と騒ぎ立てる周囲をよそに、陳尚書は

「そんなところだろうと思っていた・・・」

と苦笑さえ浮かべておったということじゃ。

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「聯灯会要」巻二十四「太原孚上座」伝より。

―――わしはこのように聞いている。そのとき、ブッダはおられた。(そしていつもおられる。生死が一如であるから。わしもおる。お前もいずれ、ここへ来る。)

―――おまえに言われんでもわかっておる。

みたいな感じですね。これはカッコいい。当時、禅にあこがれる若者が多かったのも致し方ありません。

 

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