ぶたとのである。何をしているのかよくわかりません。ぶたとのは書きやすいので、どんな季節にも不易流行である。
昨日から更新アップできるようになったみたいである。まことに常ならぬ現世であるといえよう。
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ついに現世を離れることにしました。そうだ、寒山にでも行こう。
ところが、
可笑寒山路、 笑うべし、寒山の路、
而無車馬蹤。 而して車馬の蹤も無し。
寒山へ向かう道は可笑しいのである。
車や馬が通った痕は、何もないのだ。
先人が通ったはずなのですが、みなさん自分ひとりの足で、とぼとぼとたどった道らしいんです。
聯渓難記曲、 聯(つら)なれる渓は曲を記し難く、
畳嶂不知重。 畳(かさ)なれる嶂は重を知らず。
連続する渓谷は、いくつ曲がりくねったか覚えられないし、
たたなづく峰々は、いくつ重なっているのやらわからない。
わはははー。これはたいへんだなあ。
その道のほとりには、
泣露千般草、 露には泣く、千般の草、
吟風一様松。 風には吟ず、一様の松。
千種類の草に、まるで涙のように露が降りているのだ。
松はみな同じように、風が吹くと歌い出すのだ。
まるでおれの涙、おれの哀しみの歌のように―――
どっこいしょ。
まあ人生真ん中もだいぶん過ぎまして、若いころのように単純に泣いたり歌ったりはもうしませんよ。
さて、ここからどちらに行けばいいのかな?
此時迷径処、 この時、径に迷える処、
形問影何従。 形、影に問わんとするも何れにか従(よ)らん。
どうやら道に迷ってしまったらしい、今この時、この場所だが、
(訊ねようとしても、おれのそばにいるのはおれの影だけだ。)おれの本体は影に、何をどう訊けばいいというのか。
完全に迷ってしまったように思われます。しかし、このように現世での判断的には迷っているような時・所にこそ、寒山への入り口がそこにある、のですから、絶対大丈夫。落ち着いて、ゆっくり歩きだそう。
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「寒山詩」より。大丈夫ですよ。みなさんが迷ったら、山中からここまで迎えに来てあげます。いや、やはりめんどくさいから童子を遣わします。
「うっしっしー、(途中でさぼったりできるから、)お出かけするの大好きでちゅー」
と、童子も出迎えに行きたがっているので、早く来なはれ。