令和元年7月24日(水)  目次へ  前回に戻る

常識あるひとたちはこの絵を見て、「なんだ、これは!」と驚くであろうが、これらは壮大なブタ世界のほんの一部に過ぎないのだ。

明日はそろそろ週末、そうでなくてもさすがに金曜日かと思ったが、まだ水曜日だなんて、ああ、おてんとさま!

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宋元交代の混乱期のこと、江南の溧陽・東培村に史家という素封家があった。当時は社会の混乱に乗じて各地で群盗が跋扈していましたが、溧陽近辺でも不穏が状態になってきたので、史家は一族ともに避難することとし、

以金銀掩置穀中、寄托其親家某氏者。

金銀を以て穀中に置きて、その親家某氏の者に寄托す。

金銀など貴重品を穀物の中に入れて隠し、その穀物を、親しくしていた某家に預けておいた。

数年後事態が治まると、史家はまた元の家に戻ってきました。そして主人が某家に行って、

取之、惟得穀耳。

これを取るに、ただ穀を得るのみ。

預けたものを返してもらいに行ったが、どういうわけか穀物だけである。

中に隠してあったモノは一つもない。

史氏は苦い顔をして、

穀内有金若干、何不見還。

穀内に金若干有り、何ぞ還されざる。

「あまり言いたくはないのじゃが・・・、穀物の中に金貨の類がいくばくかあったと思うのだが、それはお返しいただけないのかな?」

と問うたが、某家の主人からは、

所寄者穀耳、未嘗見金也。

寄するところは穀のみ、いまだ嘗て金を見ざるなり。

「さあ、お預けされたのは穀物だけでございましたでしょう? 金貨なんて見たこともございません」

との答え。それはそうである、隠されていたのだから、そのままなら見たことはないでしょう。しかしそうしたら何故無いのだ? 

史不得已、忿怒而帰、遂絶往来。

史已むを得ず、忿怒して帰り、遂に往来を絶す。

「むむむむ・・・・」史氏は憤怒しましたが反論できないので黙って帰り、代わりに某家と絶縁した。

それから一世代か二世代が過ぎて、元の至正年間(1341〜68)ぐらいになると、両家の絶縁した次第を知るひとたちはいなくなり、

子弟復相通好、某氏乃以女嫁史氏子、奩具頗厚、且有臥榻幃帳之類。

子弟また好みを相通じ、某氏すなわち女を以て史氏の子に嫁するに、奩具(れんぐ)甚だ厚く、かつ臥榻(がとう)幃帳(いちょう)の類有りき。

孫子の世代になると、両家はまたつきあいをするようになり、某氏の娘が史氏の息子のところにヨメ入りしてきた。その嫁入り道具はたいへん豊富で、ベッドや屏風の類の家具もあった。

「奩具」の「奩」(れん)は本来は(化粧用の)箱入りの鏡のことですが、「奩具」というと女性の身の回り道具一式、たいていそれらは嫁入りの時に持ってきますので、嫁入り道具の意にもなります。

史氏の一族には、

「豪勢なことやなあ」

とそねむ人もあったそうだが、ヨメによれば、

「決してゼイタクなのではなく、祖母のときに作ったものを大切にして、母が使っていたのを持ってきたのです。火事になったらこれらの家具は真っ先に持ち出すようにせよ、と代々言い伝えられて、大切にしてきたものなのよ」

とのことであった。

夫婦生活も落ち着いてきたころ、

一日、囲屛損裂。

一日、囲屏損裂せり。

ある日、屏風の表張りの紙が破れ裂けてしまった。

「これは張り替えなければダメだな」

と、

撤而視之、皆田券也。

撤してこれを視るに、みな田券なり。

張り紙を全部取り払って、さてこれをよくよく見たところ、すべて田畑の権利証であった。

もうずいぶん古いもので、どういうわけか権利者の欄にはすべて史家の曽祖父や祖父の名前が記されていた。

「なんだ、これは?」

と史家の人たちが調べてみると、すなわちこれらは

穀中所寄之一物耳。

穀中に寄するところの一物のみ。

かつて穀物の中に隠して預けた貴重品の、ほんの一部であったのである。

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元・孔斉「至正直記」巻二より。「天道好還」おてんとさまは好んで元に戻すようになされる)の一例として挙げられています。借金しても返さなくてもそのうち自然に返っていくからいいですよ、という意味なのかな。

 

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