やる気無しどうぶつを分類すると、「いつもやる気無し」類と「季節・天気によってやる気無し」類と「他の影響を受けてやる気無し」類に大きく分類することができる。雨の日や暑い日は、やる気無しドウブツが多い。
雨が降るのは何のせいであろうか。石のせいかも知れません。
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清の時代のことです。息園先生・斉宗伯というひとが、天台山にあった敷文書院という儒学の学校の主講(筆頭教授)をしていた。
先生は、
毎当山雨欲来、雲気滃起、必識其処。
つねに山雨のまさに来たらんと欲して雲気の滃起するに、必ずその処を識る。
山から雨がやってくる前に雲がもくもくと湧くと、いつも必ず「あそこですね」とあたりをつけておくのであった。
やがて雨が降ってくる。
及霽、随一童往鋤之、輒得一石。
霽(は)るるに及びて、一童を随えて往きてこれを鋤するに、すなわち一石を得たり。
雨が上がると、先生は童子一人を連れてそのあたりへ行き、
「このへんかなあ」
「先生、ここが濡れてまちゅよ」
などと言い合って、土を掘って、一個の石を掘りだすのであった。
その石、
上有古篆雲字。積久至盈篋。
上に古篆の「雲」字有り。積久しえ篋(はこ)に盈(み)つるに至る。
どれもこれも、表面に秦代以前の古代文字である「篆字」で、「雲」という字が書かれているのである。何年も拾いに行っているうちに随分貯まって、竹の行李からあふれ出るほどになっていた。
ある夏のこと、いつものように雨が晴れたので、先生と童子は山中に入り、
得一石。
一石を得たり。
石を一個を拾った。
ところが、普段の石と違って、今回のは
上有天台丈人四字、状若彫刻。
上に「天台丈人」の四字有り、状は彫刻せるがごとし。
表面に「天台の長老」という四文字が、彫刻されたように刻まれていた。
「先生、これいつものと違いまちゅ」
「うーん」
先生は腕組みをして、
「これ以上拾うと天台山の分が無くなるので、これを最後にしておけ、ということなのかも知れませんね」
自此遂不復見、而先生亦不久帰道山矣。
これより遂にまた見えず、而して先生もまた久しからずして道山に帰れり。
これ以降、もう探しても見つからないというので先生は石を掘り出しに行かなくなり、そして間もなく主講の地位を退いて、郷里の道山に帰ってしまった。
さて、それから今(←19世紀初めごろ)に至るまで、道山地方では、日照りの害を受けることが無い、という。他の地方で雨が降らない時でも、必ず必要なときには山から雲が湧いて雨が降るのである。それは帰郷した先生が山中のあちこちにこの石を埋めたからだ、というのだ。
異哉。
異なるかな。
「本当だったら、不思議なことですよ。
先生はその石のことを「雲起石」と呼んでいましたな。わしもあのころいくつかもらったから、日照りがどうしようも無くなったら使ってみましょうぞ。でも本当にそんなこと起こるのかなあ」
と、敷文書院の山長(校長)である秋萩先生・馬履泰がにやにやしながら話してくれた。彼こそ、かつて息園先生と山中に石を掘りに行っていた童子の成れの果て、なのである。
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清・梁紹壬「両般秋雨盦随筆」巻四より。大自然とともにあるとは、すばらしいですなあ。
梁紹壬、字・応来というひとは、清の乾隆五十七年(1792)、浙江・銭塘の生まれ。彼の家は「春秋左氏伝」を代々研究していたそうです。彼もその家学を継承するとともに、詩文にも優れ、道光年間に挙人(科挙の地方試験合格者)の資格を得、晋竹先生と号したそうですが、その平生はよくわかりません。道光十七年(1837)に「両般秋雨盦随筆」が出版されたときには、既に亡くなっていたということです。
同書は、同時代の文化人や読書人階級の人物の伝記・風聞や、昔の文人らのエピソード、さらに経書の考証、アヘンや洋銀をはじめ当時の時事問題についての記録など広範な話題を扱い、その記述もかなり精確という、すばらしい本だ、と序文に書いてあります。序文に書いてあるのだから反例が無い限り真実だと推定されるのですが、まだ拾い読み始めたところで反例を探しあげえないんで、一応「すばらしい本だ」と推定しております。
どの動物が最初に「やる気あり」に到着して「やる気」を取り戻すことができるであろうか。オレンジ色の「や」のマスに止まったら一回休み、黄緑色の「も」のマスに止まったら、「振り出しに戻る」です。