ヤル気無しでいるところにイヌが現れたりすると、身構えようとするが体はナマケタまま、ということもよくある。
今日は昼間、
「肝冷斎はおるか!」
と、岡本全勝さんが洞窟に現れました。いったい何をしにきたのか。肝冷斎もさすがに身構えた―――。
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唐も終わりに近いころ、臨済宗で有名な臨済義玄の弟子・三聖慧然(さんしょう・えねん。「臨済録」の編集者)という禅師が、徳山宣鑑の弟子の雪峯義存(せっぽう・ぎそん)のところに突然姿を現わした。二人は師匠の系列は全く違いますが、ともにすでに悟りを開いていたそうです。
「うっしっしー」
とニヤニヤしながら、
三聖問雪峯、透網金鱗、未審以何為食。
三聖、雪峯に問う、「網を透せる金鱗、いぶかし、何を以て食(じき)と為すや」。
三聖禅師が雪峯禅師に質問した。
「(世界を認識するための仏法の教えの)網をも通り抜けてしまった黄金のウロコ(の龍)は、何を食べ物にしているのか、どう思いまちゅかな?」
「食べ物」と言っていますが、何を「精神的な糧」にしてにやにやしながら生きているのか、という質問ですね。その境地だと死んでもいいはずですからね。
「うっしっしー」
雪峯云わく、
待汝出網来、向汝道。
汝が網を出で来たるを待ちて、汝に向かいて道(い)わん。
「おまえさんがその網を出てくるのを待って、おまえさんに教えてあげまちょー」
「むむむ!」
これは二通りに解釈できます。
@ (おいらはよく知っているんだけど、)おまえさんはまだ網の中だから話してもわからんだろうから、出て来てから教えてあげまちゅよ。
A (おまえさんもよく知っているとおり、)網の中から出てきていないやつには話してもわからないようなやつですよねー。
「いやいや」
と三聖禅師はまたニヤニヤしまして、
一千五百人善知識、話頭也不識。
一千五百人が善知識、話頭(わとう)もまた識らず。
「千五百人ものお弟子にとっての指導者が、話し方もご存じないでちゅとはなあ」
わしもよく知っているが言い方があるじゃろう、というのである。それともわしから教えて欲しいのか?
雪峯云う、
老僧住持事繁。
老僧住持の事、繁し。
「(そうなんでちゅよ、)おいらは(たくさん人のいる寺を預かっているので)寺の管理の仕事が忙しいんでちゅ」
「ほほう」
三聖はこの答えを聞いて「なるほどなあ」とニヤニヤし、雪峯も「さすがですなあ」と頷いたという。
なにゆえでしょうか。
・・・というのを考えてみるのが公案禅というやつですね。答えはいくらでもあるはずです。
一応、小賢しく解いてみると、
「その境地に到ると、仏法の思想がどうこう世界の認識がどうこうとかいう問題は超越してしまい、お寺の管理のような俗事(これは耕作でも餅つきのような作業でもなんでもいいんです)に夢中になって従事していることが、精神的な糧になる。おまえさんもそうでしょう?」
「ああ、そうですぞ、わしもそうじゃ」
みたいな結論に二人で達したということらしいです。
―――雪峯の弟子の弟子の弟子の弟子に当たる宋の雪竇重顕の「頌」にいう、
透網金鱗、 網を透るの金鱗、
休云滞水。 云うを休(や)めよ、水に滞ると。
揺乾蕩坤、 乾を揺るがし坤を蕩かし、
振鬣擺尾。 鬣(たてがみ)を振るい尾を擺(はい)す。
網から出てきている黄金のウロコのやつについて、
水の中で滞っている、なんて言ってはならん。
やつは天を揺るがし、地を動かして、
たてがみを振るわせ、しっぽを振り回しているのだ。
千尺鯨噴洪浪飛、 千尺の鯨、洪浪を噴き飛ばし、
一声雷震清飆起。 一声の雷、清飆(ひょう)を震い起こす。
それはまるで体長300メートルのクジラが巨大な潮を噴きだし、
ひとたび鳴ったカミナリが、何ものをも吹き飛ばす竜巻を起こすのに喩えられるであろう。
清飆起、 清飆起こりて、
天上人間知幾幾。 天上と人間(じんかん)に知るは幾幾(いくばく)ぞ。
さて、何ものをも吹き飛ばす竜巻が起こったのだが、
天上とこの人間世界の間に、そのことを理解したのはいったい何人おるのかなあ。
「二人の会話はすごいのじゃぞー! わかるかー?」
と言っているんです。
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「碧巌録」第四十九則。岡本全勝さんは、以上のような禅問答をしにきたわけではありませんでした。助かった。何か用事があってそこらまで来たついでに、寄ってくれたそうです。御心配いただきありがとうございます。