現在制作中のゲーム「旅の詩人・李白と杜甫」のためにデザインしたキャラクターである。すばらしい創作活動だが、非売品なだけでなく弾圧まで食らうのが悲しいところだ。
今日もだんだん暖かくなってきました。
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昨日は李白の「襄陽曲」をご紹介しましたが、この「襄陽曲」という「うた」にも歴史があるんです。
これはもと「襄陽楽」といったんだそうでして、
宋随王誕所作也。
宋の随王誕の作るところなり。
南朝の宋の随王・劉誕が作った曲なんである。
誕始為襄陽郡、元嘉二十六年仍為雍州、夜聞諸女歌謡、因作之。
誕始め襄陽郡たりしが、元嘉二十六年よりて雍州と為り、夜諸女の歌謡するを聞きて、因りてこれを作れり。
劉誕さまは当初、襄陽郡の郡王であったが、元嘉二十六年(448)以降、ここが雍州となった。そのとき、宵に女どもの歌っているのを聞いて、そのせいでこの歌を作ったのである。
「雍州と為」った、ということについて補足しますと、襄陽は長江最大の支流である漢水のほとり、今の湖北省にあります。「雍州」は本来長安より西北の甘粛省一帯の地名で、そちらにはちゃんと雍州があるのですが、その地は六朝時代、五胡十六国や北朝の支配下にありました。南朝側ではもちろん実効支配はできていないわけですが、しかしチャイナ全体を支配しているという建前になっているので、南朝側の「雍州」の刺史を任命し、その任地を襄陽の地に定めたのです。雍州以外にもこのような州が多数つくられており、これを歴史用語では「僑州」といいます。ああ勉強になるなあ。
さて、王がお作りになった歌は、次のとおり。みんなで歌ってみよう。
朝発襄陽来、 朝たに襄陽を発(た)ちて来たり、
暮至大堤宿。 暮れには大堤の宿に至りぬ。
朝、襄陽の町を船出してきたら、
夕方にはちょうど大堤の宿場に到着する。
大堤諸女児、 大堤の諸女児、
花豔驚郎目。 花豔(かえん)郎が目を驚かさん。
大堤の宿場のむすめっこたちときたら、
花のようにあでやかで、おまえさんは目ん玉ぱちくりじゃ。
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「旧唐書」音楽志より。春らしくていいですね。わしはもっと暖かくならないと洞穴から出ませんけどね。