ぶたキングはさすがは王者である。西洋料理だけでなく、日本食についてもたらふく食ってすさまじい指導力を発揮するのだ。今日は指導力のある(と思われる)岡本全勝さんたちと夕食をご一緒し、わたしもたらふく食って洞穴に帰ってきたところである。
肝冷斎は、いまごろ洞穴の中で
「今日も外気は冷たく、寒い寒いよー、というみなさんの声が聞こえてきそうなぐらいだが、洞穴の中は暖かいなあ」
と言っていることであろう。
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鎌倉時代のことですが、
比丘尼懐義為先妣請上堂。
比丘尼・懐義(えぎ)、先妣(せんぴ)のために上堂を請う。
懐義という尼さんが、亡くなったおふくろさんの菩提を弔うために、(あるエラい坊さんに)講演してくれるよう頼んだ。
そこで、その坊さんが上堂し、おっしゃったコトバ。
生也無所従来、猶如著衫。死也無所去処、猶如脱袴。
生や従(よ)りて来たるところ無く、なお衫(さん)を著くるが如し。死や去りて処(お)るところ無く、なお袴(こ)を脱ぐがごとし。
生まれてくるといっても何処かからやってきたわけではない。ただ、カーディーガンを着ただけのようなものじゃ。死ぬといっても何処かに行ったというわけではない。ただズボンを脱いだだけのようなものじゃ。
つまり、
万法本空、一帰何処。到頭生死不相干、罪福皆空無所住。
万法もと空、一に(※)何れの処に帰せん。到頭するところ生死は相干せず、罪福みな空にして住(とどま)るところ無し。
すべて有る(と思われている)ものは、もともと無かったのである。それらはすべてどこに行くのだろうか。結局のところ、生きるということと死ぬということはお互いに関係が無いのだ。罪を作ったとか福を受けるとかすべて無くなって、どこにもそれらが引っかかる場所は無いのじゃ。
以上。
この坊さんは、日本曹洞宗の開祖とされる永平道元禅師です。
すばらしい。さすがですなあ。生きているときは毎日生きていくので、時間的な未来に「死ぬ」ということがあるとわれわれは知っているつもりでいるわけですが、その時になったら今想像しているのとは全く別のことになるので、生きているときに「死ぬ」ことを考えていてもしようがないんです。
・・・というこのコトバは、実は、宋の天童如浄が、仲間の僧侶を火葬するときに言ったという、
万法帰一、生也猶如着衫。一帰何処、死也還如脱袴。生死脱着不相干。
万法一に帰す、生やなお衫を着るが如し。一は(※※)何れの処にか帰せん、死やまた袴を脱ぐが如し。生死脱着、相干せず。
すべて有る(と思われている)ものは(その間に区別はありえず)全体が一つでしかない。生まれるということは(その一つのものの一部が)カーディーガンを着るだけのようなものだ。全体はいったいどこに行くというのか。死ぬといっても(全体の一部が)ズボンを脱ぎ捨てるだけのようなものだ。生きるとか死ぬとか着るとか脱ぐとか、それらは何の関係があろうか(全体はずっと一つでしかない)。
というコトバ(「如浄禅師語録」)をほとんどそのまま使っているんです。天童如浄は、まさに道元禅師のお師匠さまである。
ところが、二人のコトバは、訓読したときの※「一に」と※※「一は」だけの違いなんですが、宇宙観が全く違っているように読めてしまいます。「一」は「一に」という副詞でしかないのか、「一は」という主語になる実体(のあるようなもの)なのか。肝冷斎はある程度考えていたみたいなのですが、今は奥山の洞穴に入ってしまい、彼から聴くことはできません。みなさんでよくよく考えていただければと思います。
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「道元禅師語録」より。それにしても、肝冷斎も生物である以上、おふくろがいたんだと思いますが、おふくろの命日も忘れて洞穴の中に入ってしまい、ぬくぬくしていて反省は無いのであろうか。