「袖の下に入るぐらいの握り飯では、便宜を図るわけにはまいらぬでぶー」と巨大な袖の下を要求するぶたとのだ。こんな悪政では刺客も現れるというものであろう。
今日はすごい眠くて、昼間は三時間ぐらいしか起きていなかった・・・ような気がするぐらいである。冬眠中だから当然といえば当然だが。
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みなさん、「護聖将軍」という熟語を御存じですか。御存じないですよね。字書を引いても出てきません。
ふつうは知らなくて生活にも何にも困らないのですが、知っているひともいるようなので、せっかくですから教えてもらいましょう。
・・・五代・後梁の末帝・朱友貞は貞明年間(915〜921)の末ごろ、
夜於寝間擒刺客。
夜、寝間において刺客を擒らう。
深夜、寝室で刺客を捕まえた。
「誰に頼まれた? 吐け」
と言って口を割るような者ではなさそうだが、どうせ
康王友孜所遣。
康王・友孜の遣わすところなり。
帝位を窺う康王・朱友孜の送った刺客であることは明らかであった。
「まあどうせ生かしておいたからとて口を割らないのでは取引材料にもならん。わしが殺してやろう」
と言いまして、
帝自戮之。
帝、自らこれを戮す。
皇帝自ら、お殺しになられたのであった。
皇帝自ら人をお殺しになられた方は、なかなかほかにおられない。もちろん人をコロすのが好きな皇帝はたくさんおられるのですが、たいていは「殺せ」と命じて左右が殺すのを見ているものである。この後梁の末帝以外には、まったくパターンが違うが、乱軍が宮中まで攻め入ってきたときに「皇帝の家に二度と生まれてくるな」と言って自らの子どもたちを斬り殺した明の崇禎帝ぐらいしか思いつきません。
末帝は刺客を送られること、このときが初めてならず、自ら身を護る必要に駆られて、
造雲母匣貯所用剣。
雲母匣を造りて用いるところの剣を貯う。
ガラスの箱を作って、そこに使用する剣を入れていた。
名匣曰護聖将軍之館。
匣に名づけて曰く、「護聖将軍の館」と。
その箱には名前がついていて、「聖なる皇帝を護る将軍たちの館」といったのである。
このことから「護聖将軍」という熟語は『後梁の末帝の護身用の剣のことである』ということがわかるのである。
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宋・陶轂「清異録」巻四より。このひとみたいに頻繁に刺客に襲われていたら、昼間眠くて三時間ぐらいしか起きていられなくて当然かもしれません。
なお、昨日「取った、取った」と喜んでいた岡本全勝さんのHPには、300万人目のキリ番がほぼ同時に二人いたんだそうです。なんとか二人目の認定を受けることができそうです(→翌1月29日、失敗)。