不覚にも目が合ってしまうと、心の道理として、なかなか食ったりできないものである。
今日は出勤したが一日ほぼ何もせず。時だけが流れ、夜にもんじゃを食った。
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みなさんはそんな無為な生活はしていないと思います。少なくとも時間があれば、四書六経を繰り返し読む、ぐらいの自己研鑽はしておられることでしょう。
○四書=大学、論語、孟子、中庸
○六経=詩経(「詩」がこれに該当)、書経(「尚書」が該当)、礼経(諸説あり、「儀礼」がこれの一部に該当か。唐代は「礼記」を以て当てた)、楽経(亡佚)、易経(「周易」がこれに該当)、春秋(「春秋」がこれに該当)(一般には「楽経」を除いて「五経」という)
ですね。
さてみなさん、もうお気づきだと思いますが、
四書六経、皆是吾身上有底道理。
四書六経、みなこれ吾が身上に有るの道理なり。
四書六経に書いてあることは、すべて自分の身に具わっている「道すじ」なんです。
自分の心が「こうあるべき」という道筋に沿って進んでいけば、間違いはないんです。
但聖賢先我而覚耳。我未覚、所以要読。
ただ聖賢は我に先んじて覚るのみ。我いまだ覚らず、読むを要する所以なり。
四書六経を著した聖人・賢者たちは、わたしより先にそのことにはっきり気づいた、というだけのことなんです。ただし、わたしはまだはっきりとは気づいていないんで、その書物を読む必要があるんです。
しかし、これを読んだとしても、
若不反躬、則皆成糟粕。
もし躬に反(かえ)らざれば、すなわちみな糟粕を成す。
すべてを自分の問題として捉え直さないならば、立派なことが書いてあっても、樽の中の酒ガスにしかなりません。
酒ガスなんかうまくないから、酒を飲まないといけない。
聖賢之書以修身。修身則聖賢之言愈有著落。
聖賢の書以て身を修む。身を修むれば聖賢の言、いよいよ著落(ちゃくらく)する有り。
四書六経という聖人・賢者たちの書物を学んで自分の行動を修める。こうして行動が修まったならば、聖人・賢者のコトバはいよいよさらに身に着くものである。
実際に実践し体験してこそ、知識は自分のものになるのである。
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明・胡居仁「居業録」巻二より。なるほどなー。ためになるなあ。こんなにためになるのに、まさか、四書五経を読んでいないひとはいませんよね。