平成30年12月11日(火)  目次へ  前回に戻る

ヒヨコと象は融け合うことはありません。踏みつぶしてしまうことはあるかも知れませんが。

今日も寒かった。油でも嘗めて早く寝たいところ。

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莫非水也。一杯之水与江海之水無異。

水にあらざるなきなり。一杯の水と江海の水と異なる無し。

水でないことがあろうか。盃一杯の水と、河や海の水と、(どちらも水であって)違いがあるわけではないのだ。

と、逆接的な書き出しで始まりました。びっくりしてじっくり読んでくれるのではないか、ということで工夫した技巧ですね。

在杯則吾知其為杯水、投諸江海則見江海之水耳。欲復求杯水、而不得。

杯に在りてはすなわち吾その杯水たるを知るも、これを江海に投ずれば江海の水を見るのみなり。また杯水を求むるとも得ざるなり。

そこで、わたしは、盃に入っているものは盃の水だ、とわかりますが、それを川や海に注ぎこんでしまうと、もう河や海の水を目にするばかりで、もう一度さかずきの水を探そうとしても取り出すことはできないのである。

一方、

有曰油者、猶之水也。而注一点油于水中、汎汎然若舟之在河、経数日而未嘗成混也。

油と曰う者有り、なおし水のごとし。而して一点の油を水中に注げば、汎汎然として舟の河に在りて、数日を経るもいまだかつて混を成さず。

油というものがあります。水によく似ている。しかるに、一滴の油を水に落としてやると、ふわふわとまるで舟のように、河の中で、何日経とうとも水に溶けてしまわずに浮いているのである。

このようになるのは、

蓋二者同其形、而異其性、故不相容也如此。

けだし二者はその形同じく、その性を異にし、故に相容れざるやかくの如し。

つまるところ、この水と油の二者は、見た目はよく似ているが、性質が違う。そのため、このように混じり合わないのである。

うーん―――、

是可取以喩人矣。

これ、取りて以て人に喩うるべきなり。

このことを使って、ニンゲン世界について譬え話をすることができるのではないだろうか。

喩えてみてください。

夫円顱而横目、皆人也。然其心則君子小人之分焉。

夫(それ)、円顱にして横目なるは、みな人なり。しかるにその心にはすなわち君子・小人の分有るなり。

その、丸い頭蓋骨を持ち、目が横に細長くついているのは、すべてニンゲンの範疇に入る。ところが(外見は同じでも)その心の中では、君子(立派なひと)と小人(くだらない人)という区別があるものだ。

このうち、

君子有寛裕、有強毅、有狷介和厚之不同、而其与小人居、則必君子与君子相合。而偕拒小人者、其性則然也。

君子に寛裕有り、強毅有り、狷介・和厚の不同有り、しかるにその小人と居るや、すなわち必ず君子は君子と相合す。しかして小人を偕(みな)拒むは、その性のすなわち然るなり。

立派なひとの中には、寛大なひともいれば、強気なひともおり、付き合いの悪いくせのあるひと、和やかで人情に篤いひとなど、それぞれに個性がある。しかし、君子は小人と混淆されているとき、必ず君子同士で集まり、小人とは付き合わない。これはその本質からみて必ずそうなることである。

然君子之性、水也。小人之性、油也。

しかるに君子の性は水なり。小人の性は油なり。

とはいえ、君子の本質が水とすれば、小人の本質は油である。

油之不見容于水、固宜也。

油の、水に容れられざる、もとより宜なり。

油が水に溶け込んでしまわない(小人と君子は理解しあえない)というのは、もちろんそれはそれで適正なことだ。

ところが、

而今水之与水或及眼相視、曰、彼一杯水也、我也江海之水也。彼安及我耶。将且忘其与己同類而以油視之。

而今、水の水とあるいは眼相視に及び、「彼は一杯の水なり、我や江海の水なり。彼いずくんぞ我に及ばんや」と曰い、将且(かつ)その己と同類なるを忘れて油を以てこれを視る。

最近では、水(君子)が水(君子)と出会って

「やつは一杯の水でしかない。わしは川や海の水だ。やつはどうしたってわしに敵うはずがなかろう」

と言い、それだけでなく、同じ水(君子)の側だということさえ忘れて、相手を油(小人)だと指摘するようなさまなのだ。

不知油之笑於後也。

知らず、油の後ろに笑えるを。

背後で油(本当の小人)が笑っているのがわからないのだろうか。

うっしっし。

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竹堂・斎藤馨「水喩」水の喩え)(「今古三十六名家文鈔」より)。水道民営化の影響が心配ですが、水と油なら油の方が栄養はあります。われ一点の油となって化け猫の栄養にでもならん、というならわかりますが、自分は水=君子であって油=小人ではない、というこの自信はどこから出てくるのでしょうか。このあたりが「儒者」というひとたちを理解しにくいところです。

齋藤北堂は文化十二年(1815)陸奥遠田郡の生まれ、江戸に出て昌平黌等に学び、私塾を開いて、仙台藩からも招聘があったが、それを受ける前に嘉永五年(1852)死去した。「鴉片始末」の著があるなど海外事情にも詳しく、朝野その死を惜しんだという。

 

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