「やっつけてしまうのニャ!」「チュー!」「チュー!」と襲い掛かる悪のドウブツたちだが、それでもニンゲンと比較すると上等な部分になるようである。
今日もめし食った。豚汁うまかった。しかし山に登っただけで社会に役立つことは何もしませんでした。明日から平日になりますが、やはり「無駄飯食らい」と言われるのである。
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無駄飯食らいはドウブツ以下らしいんです。
清末のことでございますが、
中国一千人中、五百人吃飯不做事、四百九十九人為吃飯而做事。不知可有一人為做事而吃飯。
中国一千人中に、五百人は飯を吃いて事を做(な)さず、四百九十九人は飯を吃わんがために事を做す。一人の事を做すがために飯を吃うあるべきやを知らず。
わが中国では、千人のひとがいるとすると、そのうち五百人はメシは食うが何もしない。四百九十九人はメシを食うために何かをしている。さて、あとの一人ぐらいは何かをするためにメシを食っているのだ、と思うがどうであろうか。
このうち、
吃飯不做事者、倚頼人為生活、禽獣不若也。
飯を吃いて事を做さざる者は、人に倚頼して生活を為し、禽獣に若かざるなり。
メシは食うが何もしない、という者は、他人に依存して生きているのであり、(自分の食い物は自分で捕らえて生きている)ドウブツ以下である。
学者とか貴族とか役人とか、そんなやつらです。
また、
為吃飯而做事者、禽獣以爪牙覓食、人以知識労力覓食、覓食之方法不同、而其覓食則一、禽獣類也。
飯を吃わんがために事を做す者は、禽獣は爪牙を以て食を覓(もと)め、人は知識・労力を以て食を覓むれば、食を覓むるの方法同じからざるも、その食を覓むるはすなわち一にして、禽獣の類なり。
メシを食うために何かをしているという者は、ドウブツが自分の爪や牙で以て弱い者を斃して食べ物を得ているのに対して、ニンゲンは知識や労働力を以て食べ物を得るのであるから、食べ物を得る方法には違いがあるものの、食べ物を得ようとしている点では同じである。要するにドウブツと一種と考えられる。
わーい、普通の労働者はドウブツの一種にしてもらえました。
為做事而吃飯者、具有人格、出于禽獣之上、始得謂之人。
事を做すがために飯を吃う者は、人格を具有し、禽獣の上に出でて、始めてこれを人と謂うを得たるなり。
何かをするためにメシを食うという者は、ニンゲンとして心組みを有しており、ドウブツより上等であるから、やっとニンゲンということができるであろう。
さて、そいつがいるかどうか。
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帰終居士「意気譜」(「反菜根譚」)より。清末の光緒十八年(1892)に帰終居士の遺著が発見された! という設定で世に出されたものなので、文章が日本語的になっていて読みやすいですね。それにしても、組織の中で「よく働くやつ」:「普通に働くやつ」:「働かないやつ」の比率は2:6:2ぐらい、と岡本全勝さんにむかし教わった記憶があるが、実は半分もいるとはなあ。