平成30年12月5日(水)  目次へ  前回に戻る

モグ忍者に唯一使える術が「土遁の術」であるように、初代肝冷斎にできた唯一の生き方が世を逃れるということだったのだ。

このHPは昔は肝冷斎主人というひとがやっていたんですが、山中に入ってしまいました。その後の後継者もどんどん消えて行ってしまい、現在は仕方がないので遠縁の頭冷斎がやっています。

「肝冷斎らしきひとを見た!」

というひともいるかも知れませんが、ニセモノの可能性が高いでしょう。

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肝冷斎は現在、以下のようになっているのではないかと思われます。

一間屋、六尺地、雖没荘厳、却也精緻。

一間の屋、六尺の地、荘厳没(な)しといえども却ってまた精緻なり。

柱と柱の間が一つしかない最小限の家屋に住み、寝転ぶことのできる2メートル弱の部屋に暮らしている。すばらしい飾りは無いが、かえってすぐれて緻密な場所である。

蒲作団、衣作被、日裡可坐、夜間可睡。

蒲にて団を作し、衣を被と作し、日裡には坐すべく、夜間には睡るべし。

ガマを編んで座布団を作り、衣をそのまま掛布団にして、昼間はそこに座り、夜はそこに眠っている。

燈一盞、香一炷、石磬数声、木魚幾撃、龕常関、門常閉、好人放来、悪人回避。

燈一盞、香一炷(しゅ)、石磬数声、木魚幾たびか撃ち、龕は常に関(とざ)し、門は常に閉められ、好人は放(ほしいまま)に来たり、悪人は回避す。

燈火は一皿(の油)のみ、一本のお香を立て、石の磬を時にこんこんと打ち、木魚をしばしばぽくぽくと叩く。たいていの時、神仏を祀る壇の扉は閉じてあり、家に入る門も閉じられている。よきひとは好きに来るがいいが、イヤなやつが訪ねてきたら居留守である。

髪不除、葷不忌、道人心腸、儒者服制、不貪名、不図利、了清浄縁、作解脱計、無罣碍、無拘繋、フ便入来、忙便出去。

髪除かず、葷も忌まず、道人の心腸にして儒者の服制、名を貪らず、利を図らず、清浄(しょうじょう)の縁を了し、解脱の計を作し、罣碍(けいげ)無く、拘繋無く、フはすなわち入り来たり、忙はすなわち出で去る。

髪を剃っているわけではないし、(お寺で禁じられる)生臭ものを禁じているわけでもない。道教の仙人を求めるひとの心持ちで、儒者の服装をしている。名声を欲しがらず、利益を求めず、清らかな因縁をそろそろ終わりにして、解脱の方法を実践し、心にわだかまり無く、拘束されることも無い。だから、ヒマはどんどんやってくるが、忙しさはどんどん遠ざかっていくのだ。

省閑非、省閑気、也不遊方、也不避世、在家出家、在世出世。

閑非を省き、閑気を省き、また方に遊ばず、また世を避けず、家に在りて家を出で、世に在りて世を出でたり。

無用の悪事、無用のやる気を捨てる。一方、呪術にはまらず、現世から飛び出してしまうわけでもない。家の中にいるんだけど出家しているのと同じ、俗世にいるんだけど世間から飛び出しているのと同じ状態である。

仏何人、仏何処、此即上乗、此即三昧。

仏何人ぞや、仏何処ぞや、これすなわち上乗、これすなわち三昧なり。

ブッダがどんなひとであったか、ブッダがいまどこにいるのか、(そんなことは関係無しに)彼の生活は仏教的にもすばらしく、心を一にして快楽の世界にいるのである。

こうやって、

日復日、歳復歳、畢我這生、任他後裔。

日また日、歳また歳、我が這(こ)の生を畢え、他(か)の後裔に任さん。

一日一日、一年一年を過ごして、わたしの人生を終えよう。あとのことはあとのひとたちが何とかするだろう。

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「酔古堂剣掃」巻一より。なんかすばらしいではありませんか。肝冷斎はシアワセになったのだなあ。みなさんも少しでも真似をしていくといい、と思いますよ。

 

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