「あずき洗いましょっか、ひと取って喰おか」とアズキアライの歌が聞こえてくる。その歌を聞いてふらふらと出て行った者は還らない、と申します。・・・そろそろわしも食われるかも知れません。
血圧が上がって、頭がじんじん・ふらふらして困っているんです。明日は「体調不良」で無断欠勤か。
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東晋のころのことでございます。
王献之(字・子敬)は、書でも有名な王羲之の息子で、風流な貴公子として称され、後に東晋安帝の外戚、臣下としては最高位となる中書令にもなった大貴族でございますが、隠棲先の浙江・会稽から建康の都に帰る途中、江蘇・呉中の町を通り過ぎた。
聞顧辟彊有名園、先不識主人、径往其家。
顧辟彊に名園有りと聞き、先に主人を識らざるも、径(ただ)ちにその家に往く。
呉のひと・顧辟彊の家にすばらしい庭園があると聞き、それまで主人の顧と面識が無かったのだが、まっすぐにその家に向かった。
貴族ですから、従者たちに輿を担がせ、これに座っていくんです。
ちょうどそのとき、
値顧方集賓友酣燕。
顧、まさに賓友を集めて燕に酣わなるに値(あ)えり。
顧は客人や友だちらを集めて宴会を開いていて、そのたけなわな時間に到着した。
「宴会してるみたいでちゅよ」
と従者は言ったが、
「かまうことはないぞ」
と、遠慮なく輿を庭園に入れさせる。
王遊歴既畢、指麾好悪、傍若無人。
王、遊歴既に畢(おわ)り、好悪を指麾して傍らに人無きがごとし。
王はぐるりと園を見回り終え、(宴会のど真ん中に輿を一か所に置かせると、)よいところ悪いところを指摘して、まわりにひとがいないかのような振る舞いである。
「一体どこの誰だ?」
「会稽の王子敬さまだそうでございます。超一流の貴族さま、ご挨拶なすっては・・・」
「はあ?」
顧勃然不堪曰。
顧、勃然として堪えずして曰えり。
顧は腹を立てて、がまんできないかのように言った。
傲主人、非礼也。以貴驕人、非道也。失此二者、不足歯人、傖耳。
主人に傲るは非礼なり。貴を以て人に驕るは非道なり。この二者を失うは人に歯するに足らず、傖(そう)なるのみ。
「人の家に来て主人に挨拶も無いのは、礼から外れている。さらに、自分が貴いからと人を見下げるのは、道からも外れている。この二つから外れているやつは、人として相手にする必要はない。田舎者めが!」
「傖」(そう)は「草」に通じ、「いやしい」とか「雅やかでない」と人を謗るコトバなんですが、特にこの時期は、江南のひとたちが、西晋から亡命してきた中原の貴族たちを罵るコトバとして使われていました。顧辟彊の矜持、王献之の立場などいろいろ踏まえた含蓄のあるコトバなんです。
そう罵って、顧は、
便駆其左右、出門。
すなわちその左右を駆りて出門せしむ。
王の従者たちを門から追い出してしまった。
「うひゃあ、怒りまちたよー」
従者たちは王を乗せた輿を置いたまま逃げ出してしまった。
王独在輿上、廻転顧望、左右移時不至。然後令送箸門外。
王は独り輿上に在りて廻転して顧望するも、左右は時を移すも至らず。しかる後門の外に送箸(そうちゃく)せしむ。
「箸」(ちゃく)は、「お箸」ではなく「着」の意で使われています。
王献之はひとり遺されて、輿の上できょろきょろと周りを見回していたが、従者たちはいつまで経っても戻って来ない。しばらくしてから、顧はその輿を門の外に担ぎ出して追い出してしまったのである。
ところが、そうなっても、王献之は
「確かにいい庭園であった」
と、
怡然不屑。
怡然として屑せず。
楽しそうで、気にかける様子も無かった。
ということである。
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「世説新語」簡傲第二十四より。顧辟彊の血圧は上がってしまったことでしょう。あたまじんじんしたかも。
「簡」は人に対してぞんざいに対処すること、「傲」はエラそうにすること、で本来よくないことなのですが、「世説新語」の世界では、世俗の礼教を無視して自由奔放に振る舞うこととして高い評価を与えられます。まあ世襲貴族の世界ですから許されるので、みなさんはこんなふうには振る舞ってはいけませんよ。わしのように世俗から離れない限りはのう。ほっほっほ。