「モグるん」地中から地中へと身を潜めて生きていても、ぽこんと地上に出たらヒヨコの通り道だったりして、踏みつけにされたりする世の中でございます。
業務上の都合終わりました。ただし本体は帰って来たくない、というので、帰ってきたおれ・・・ハ・・・デク・・・ノ方・・・ナノダ・・・。
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まあそれはそれとしまして、西晋の庾ガイ(「豈」に「攵」。以下めんどくさいので「豈」で代用します)、字は子嵩は河南のひとで、東海王・司馬越の軍諮祭酒として活躍したのですが、後に東晋の時代に政権を握り、死後、大尉を贈られた庾亮の叔父に当たる。
あるとき、まだ若かった庾亮が洛陽の叔父・庾豈のところを訪ねた。用事をすませて帰ろうとすると、庾豈は
留之云、諸人当来。尋温元甫、劉王喬、裴叔則倶至、酬酢終日。
これを留めて云う、諸人まさに来たらん、と。尋(つ)いで、温元甫、劉王喬、裴叔則ともに至り、酬酢(しゅうそ)すること終日なり。
庾亮を引き留めて、「まもなくみんなくるだろう」と言った。
しばらくすると、温幾、劉疇、裴楷らがやってきて、一日中いろんなことを語り合った。
庾亮は晩年になっても、
猶憶劉裴之才儁、元甫之清中。
なお劉・裴の才儁、元甫の清中を憶えり。
ずっと、劉疇や裴楷の才能のキレ、温幾のさわやかでバランスのとれた人格を、忘れることができなかった。
そうなのですが、中でも叔父の庾豈は、
家従談談之許。
家従は談談の許(もと)なり。
うちの叔父さんは、議論の中心にいた。
そして、
神気融散、差如得上。
神気融散し、やや上を得るが如し。
精神はとろんとして自由、ほぼてっぺんを得ていたようであった。
と評されておりますように、当時の俊秀たちの中心にいた人物であった。
ときのひとびとも、庾豈を目して、
善於託大、長於自蔵。
大に託するに善く、自ら蔵するに長じたり。
大いなる道にうまく自分を任せており、自らを目立たせないのが得意だ。
と言われていたのでございます。
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「世説新語」第八「賞誉」より。サラリーマンの鏡のようなひとですね。みなさんも真似して自らをうまく隠して生きていってくださーい。
・・・と思ったのですが、これほどの人物でも、永嘉五年(311)、石勒の乱に巻き込まれて殺された。どうやらサラリーマンなんて何をどうやってもコロされるみたいなので、もう好き放題生きていただくのがいいと思いますよー。