平成30年10月23日(火)  目次へ  前回に戻る

モグなどのやる気無しドウブツは、やる気が無いので、果実が熟して落ちてくるのを待つだけである。もしやる気を出したりしたら驚天動地の出来事である。

寒くなってまいりました。シゴトもめんどっちいし、そろそろ逃亡するかなあ。

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「わーい、酔っぱらった。お、月が水に浮かんでいるぞ。あれを取ろう、と・・・」

どぶん。ぶくぶく。

と、長江に沈んでしまった、とも言いますし、ふつうに病死した、とも言いますが、李白が亡くなったのは宝応元年(762)冬十一月なんだそうでございます。

その墓を安徽・当塗の東南に訪ねてまいりました。

ああ、哀しいかな!

思うに、

仁以安物、公其懋焉。 

義以済難、公其志焉。

識以弁理、公其博焉。

文以宣志、公其懿焉。

仁は以て物を安んず、公それ懋(さか)んなるかな。

義は以て難を済(すく)う、公それ志せるかな。

識は以て理を弁(わき)まう、公それ博きかな。

文は以て志を宣ぶ、公それ懿(い)なるかな。

 仁というものは他者を安心させるものである。あなたは盛んに人を安心させた。

 義というものは困っている者を救おうとするものである。あなたはそのことを志していた。

 識というものは真理を理解しようとするものである。あなたはあらゆることを知っておられた。

 文というものは思いを宣言するものである。あなたはすばらしい文章を作った。

こんなすばらしい人なので、

宜其上爲王師、下爲伯友、年六十有二、不偶、賦臨終歌而卒。

その上には王の師と為るべく、下には伯の友に為るべきに、年六十有二にして偶せず、「臨終歌」を賦して卒せり。

うまくいけば王者の師として処遇されるべきであったし、それほどでなくても覇者の補佐として働くべきひとであった。しかるに、六十二歳で、不遇のまま、「臨終の歌」をうたって亡くなったのである。

悲しいかな。

しかしながら、

聖以立徳、賢以立言、道以恒世、言以経俗、雖曰死矣、吾不謂其亡矣也。

聖以て徳を立て、賢以て言を立て、道以て世を恒にし、言以て俗を経れば、死せりというといえども、吾それ亡せりと謂わざるかな。

聖人のような徳を遺し、賢者として言葉を発し、道を教えて世に良識を教え、その言葉は世俗社会を正しくする―――そのようであれば、たとえ「死んだ」といわれていても、死んではいない、とわたしは言いたい。

墓碑に銘して曰く―――

立徳謂聖、立言謂賢。嗟君之道、奇于人而V于天。哀哉。

徳を立つるを聖と謂い、言を立つるを賢と謂う。嗟(ああ)、君の道、人に奇にして天にV(ひと)し。哀しいかな。

徳を遺すのを聖人といい、言葉を発するのを賢者という。ああ、あなたのやり方は、人間の中では飛びぬけていて、天と同等であった。(それなのに死んでしまって)かなしいなあ。

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唐・李華「故翰林学士李君墓誌幷序」「李太白全集」所収)。

どぶん、ぶくぶく・・・

の人を誉めすぎな気もしますが、亡くなったひとの悪口も言えないから、こんなとこなんでしょう。なお、この文、後世のひとからは、李白の経歴も出身もその生活にも一言も触れず、

惜墨如金(墨を惜しむこと、金の如し)

まるで墨が黄金であるかのように(文字を)けちった。

と不評です。

この墓碑をさらに数十年して通りかかったおじさんが、一篇の詩を遺した。

采石江辺李白墳、 采石江辺、李白の墳、

繞田無限草連雲。 田を繞らせ無限の草は雲に連なれり。

 長江の采石浦のあたりに、李太白の墓があった。

 まわりは田んぼがめぐり、どこまでも草むらが、雲にまで連なっている。

可憐荒壟窮泉骨、 憐れむべし、荒壟の窮泉の骨、

曾有驚天動地文。 かつて有り、驚天動地の文。

 悲しいことだなあ。この荒れ果てた墓の地下深くに埋もれた骨は、

 かつて天を驚かせ地を揺れ動かすような、すごい文章を書いていたのだ。

但見詩人多薄命、 ただ見る、詩人の多く薄命なるを、

就中淪落不過君。 なかんずく淪落すること、君に過ぎず。

 当たり前のことだが、詩人というのはたいてい不運なものなのだ。

 中でもあなたほど落ちぶれ果てたひとはいるまいが。

(わたしも詩人なので落ちぶれてしまって当然なのだなあ・・・)

と、左遷されて流されていく途上のこのおじさん(このとき四十二歳)は思っていたのでしょう。

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唐・白楽天「李白墓」。うーん、もしかしたら、わし(肝冷斎)も詩人なのかも知れないぞ、と思えてきました。そうであれば不運な理由もわかるではありませんか。なお、「驚天動地」という四字熟語は、この詩で白楽天が考え出したのだそうです。これは確かにすばらしい。

 

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