源平時代には、「わーい、こいつやる気無さそうな顔していまちゅよ、反平家的でーちゅ!」と赤かむろちゃんに指摘されると、「せいさーい!」と白かむろちゃんの制裁パンチを食らうという、恐ろしい社会監視システムがあったのである。こんなシステムのもとでは下↓のひとなんかやっていけなかったであろう。
やっと西日本の雨は通り過ぎたようです。ずいぶんひどいことになっているらしい。
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雨に降られて、友だちもいないので、詩を読んでみた。
運生会帰尽、 生を運(めぐ)らすればかならず尽くるに帰す、
終古謂之然、 終古これを然りと謂えり。
世間有松喬、 世間に松と喬有りといえど、
於今定何間。 今において定めて何れの間にある。
「松」は赤松子、「喬」は「王子喬」でいずれも「神仙伝」に出て来る大昔の仙人である。
生きているものはいつか必ず滅尽の世界に帰る―――
いにしえよりそのとおりだと言われてきた。
かつてこの世には赤松子や王子喬といった仙人がいたと伝えられるが、
現在このとき、その方たちははたしてどこのあたりにおられるのだろうか。
どうやら、進歩した科学の目で見ると、仙人はいないみたいなんです。さびしいなあ。
さびしそうにしていたら、
故老贈余酒、 故老、余に酒を贈り、
乃言飲得仙。 すなわち言う、飲めば仙を得ん、と。
知り合いのじじいがわしに酒を贈ってくれました。
そのとき言うには、「飲めば仙人になれますぞ」と。
ほんとかなあ。ほんとだといいなあ・・・。
試酌百情遠、 試みに酌めば百情遠ざかり、
重觴忽忘天。 觴を重ぬればたちまちに天を忘れたり。
ためしにちょっと飲んでみたら、いろんなイヤな思いはどこかに行ってしまったぞ!
もう一杯、もう一杯と飲んでみたら、あっという間に世界の存在さえ認識しなくなってきた。
うひゃひゃ。
天豈去此哉。 天あにここを去らんや。
任真無所先。 真に任せて先んずるところ無からん。
天界はここから離れたところにあるわけではないのだなあ。
真理のままに、その前に行ってしまうこともない(まったく一体化した)状態だ。
おお、雲の向こうから鶴が降りてきましたぞ。この鶴にのって飛び立とう。
雲鶴有奇翼、 雲鶴に奇翼有り、
八表須臾還。 八表も須臾に還る。
「八表」というのは「八方」(東・西・南・北・東北・東南・西北・西南)のそのさらに向こう側、ということで、世界の外、の意。
雲の中の鶴には不思議な翼があるから、
世界の向こう側までいって、すぐにまた帰って来れるのさ。
わははは、わははは、わははは・・・
すばらしい。
さて。
自我抱玆独、 我、この独りを抱きてより、
僶俛四十年。 僶俛(びんべん)として四十年なり。
「僶」(びん)は「マジメに勤める」、「俛」(べん)は「伏す」の意ですが、「僶俛」と熟して「いそいそとつとめはげむ」。
わしはこの自分自身をはじめて認識するようになってから、
まじめに勤めてもう四十年にもなるのである。
もうだいぶん弱ってきました。
形骸久已化、 形骸久しくすでに化するも、
心在復何言。 心在り、また何をか言わん。
外形やからだは時間を経てもう老化してきたのだが、
わしにはまだ自由な心があるのだから、これ以上何を言うことがあろうか。
以上。
最後はなんだか自分自身に言い聞かせているみたいで悲しくなってきました。
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晋・陶淵明「連雨人絶独飲」(連雨に人絶し、独り飲む)の詩。
以前も書いたのですが、唐以前のお酒は度数が低く、かなり飲んでも酔わなかったらしいんです。六朝時代の陶淵明の飲んだお酒はあまり酔えなかったと思うのですが、かなりぶっとんだ状態になっているようである。お酒以外のもっといいヤツを何かやっていたのかも知れません。平日への不安と恐怖を紛らわすために「もっといいヤツ」があったらいいのになあ、といつも思うのだが・・・。
「こいつ、もぐもぐ言って地下に潜っているとは、やる気なーし!」「せいさーい!」「もぐー」