平成30年1月4日(木)  目次へ  前回に戻る

またイヌを画いてみた。イヌは諦念に従順たらんとするものなり。

仕事始めに行ってきました。まだ挨拶とかしているだけなのに、ツラかったなあ。今日はなんとか帰ってこれましたが、明日はさすがにもう力尽きてしまうと思います。

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漢の文帝(在位前180〜前157)が右丞相(漢の制では右丞相が左丞相より上位)の周勃に問うた。

天下一歳決獄幾何。

天下一歳の獄を決することいくばくぞ。

「一年間の全国の刑事裁判の数は何件なのかな?」

周勃答えて曰く、

不知。

知らず。

「存じません」

また問う、

天下一歳銭穀出入幾何。

天下一歳の銭穀の出入することいくばくぞ。

「一年間の全国の金銭と穀物の支出と収入はどれぐらいなのかな?」

周勃また答えて曰く、

不知。

知らず。

「存じません」

なんということでしょう。我が国の総理であればカップラーメンの値段も知っているはずなのに、漢の右丞相が裁判の数や金銭・穀物の収支を知らないとは。

周勃は、

汗出沾背、愧不能対。

汗出でて背を沾(ぬ)らし、対するあたわざるを愧ず。

冷や汗が出て、背中をじっとりと濡らした。答えられないことがツラかったのである。

帝は今度は左丞相の陳平の方に向かって、同じことを問うた。

すると、陳平が答えるには、

有主者。陛下即問決獄、責廷尉。問銭穀、責治粟内史。

主とする者有り。陛下、即ち決獄を問わば、廷尉を責めよ。銭穀を問わば、治粟内史を責めよ。

「担当している者がございます。陛下がもし刑事裁判のことをお聞きになりたいなら、行刑を担当する廷尉にお訊ねください。金銭と穀物のことをお聞きになりたいなら、穀物の収支を担当する治粟内史にお訊ねください」

なんという回答でしょう。無責任だ。こんなことでは自分の関与していない事件について「関与していない」という証明もできないのではないか。怪しからん。

ところが、帝は

「へー」

と感心されまして、

苟各有主者、而君所主者何事也。

いやしくもおのおの主とする者有らば、君の主とするところの者は何事ぞや。

「官吏にはそれぞれ担当することがあるのじゃなあ。すると、君主の担当することは何であろうか」

と問われた。

陳平曰く、

主臣。陛下不知其駑下、使待罪宰相。宰相者上佐天子、理陰陽順四時、下育万物之宜。外鎮撫四夷諸侯、内親附百姓、使卿大夫各得任其職焉。

臣に主たるなり。陛下は、その駑下なるを知らずして、罪を宰相に待たしむ。宰相なる者は上は天子を佐(たす)け、陰陽を理め四時に順い、下は万物の宜を育す。外には四夷・諸侯を鎮撫し、内には百姓を親附し、卿大夫をしておのおのその職に任(た)うるを得せしむるなり。

「臣下を統べることを担当されるのです。その方法は、陛下は、部下が頑迷で愚かだということに気づかないようにされ、責任を宰相に委ねるのです。宰相というのは、上は皇帝をお助けして、天地の動きや四季のめぐりを順調にさせ、下はあらゆる人やドウブツ・植物が適切な状態になれるように育成し、外については四方の蛮族や各地の大名を鎮め、内については人民を懐け、役人たちにそれぞれの職務を全うできるようにしてやる、という責務を持つのです」

文帝乃称善。

文帝すなわち善を称す。

文帝は、「なるほど、よいかな、よいかな」とお褒めになられた。

御前を退出してきて、周勃は陳平に、

君独不素教我対。

君、ただに、もとより我に対を教えず。

「おまえさんは、何でその答えをさきにわしに教えておいてくれなんだのじゃ」

陳平は笑って言った。

君居其位、不知其任邪。且陛下即問長安中盗賊数、君欲彊対邪。

君はその位に居りて、その任を知らざるか。かつ、陛下即(も)し長安中の盗賊の数を問わば、君、彊対せんとするか。

「おまえさんは自分の着いている官職の職務を知らなかったのか。もし陛下が長安の都にいる盗賊の人数は何人か、とご下問になられたとしても、おまえさんは答えなければならない、と思っておるのか?」

「うーん」

ここにおいて周勃は、

自知其能不如平遠矣。

自らその能の平に如かざることの遠きを知る。

自分の能力が陳平に遠く及ばないことを認識した。

しばらくして、周勃は病を理由に右丞相を辞めたのであった。

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「史記」巻五十六「陳丞相世家」より。ですが、陳平の死後、また周勃が丞相になっています。

能力が及ばないとシゴトはツラい、という基本的なことのほか、さらに三つぐらいのことがわかりました。

一つは、宰相の職務は悪魔の証明やカップヌードルではないらしい、ということです。二千年以上前の司馬遷が知っていたのですから、ゲンダイの言論人や知識人のみなさんはもちろん知っているんだろうなあ。

二つめは、陳平も周勃も漢の高祖に仕えた功臣たちですが、彼らは激しい権力争いをしながらも、お互いにかなり率直に意思疎通をしていたらしいこと。これは明治の元勲たちに似ているのではないかと思います。

三つめは、相変わらず司馬遷先生は「見たきたように」書いておられるなあ、ということです。皇帝の前を退出したあとの右丞相と左丞相の会話、なんか記録に残っているわけないので、当時の「伝説」をもとにしているのだろうとしか思えませんよねー。もしメモが残っていたとして、当事者たちに断っているはずないよね。

ちなみに明日更新を休んだら、力尽きたと思ってください。九十九パーセントぐらい力尽きると思います。

 

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