平成29年12月3日(日)  目次へ  前回に戻る

珍しいメキシコぶたとサボテン。世界にはいろんな驚くべきことがあるのである。

まさかとは思っていたが、とうとう明日は平日である。またぶたの着ぐるみを着なければならないとは・・・。なお、下記によれば、ニンゲンの着ぐるみもあったみたいですよ。 

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十八世紀終わりごろの、ヴェトナムのお話なんです。

宣光(トゥエンクワン。ハノイの北にある省である)あたりは山中であるので、

山谷間、土人常為桟閣、以避鷙獣。

山谷の間、土人つねに桟閣を爲(つく)り、以て鷙獣を避く。

「桟閣」は、山の険阻なところに木でかけわたす橋を「桟」(サン。かけはし)といいますが、その上に害獣や風雪を避けるための家屋を設けたもの。チャイナでは古代から作られていたようで、後漢書などにも記述があります。

険阻な山や谷に、地元民はかけはしを作っており、さらに猛禽や猛獣に襲われたときに逃げ込めるようにその上に家屋を設けていた。

そうなんです。

あるとき、

有大人入村落一家、搏人而食。

大人の村落一家に入りて、人を搏ちて食らう有り。

巨人が集落の中の一軒の家に入り込んで、ひとをぶん殴って(倒れたやつを)食う、という事件が発生した。

十口尽其九、一人逸、聞於官。

十口、その九を尽くし、一人逸れて官に聞す。

一家十人のうち九人まで食われたのだが、一人が逃げ出してきて、役所に助けを求めたのであった。

このとき、同地方の総督は阮廷碩という果断なひとで、

輿大砲四射。

大砲を輿して四射す。

大砲を担いで持ち出させ、巨人を発見すると、これに向けて四発の弾丸を発射させた。

どーん。どーん。どーん。どーん。

大砲が命中して、さすがの巨人も、

坐斃桟閣上、足垂至地。

坐して桟閣上に斃るに、足は垂れて地に至れり。

桟閣の屋根の上に腰かけた状況で死んだのであったが、そのとき、足は地面にまで垂れていた。

拽出之、五体裸然、長約二丈許、短髪及肩。

拽きてこれを出だすに、五体裸然とし、長さ約二丈許り、短髪肩に及べり。

(足を引っ張って)引きずりおろして調べてみたところ、体には衣服のようなものは着けておらず、背の丈は6メートルぐらいあって、髪の毛が肩まで伸びていた。

・・・その後、阮廷碩がハノイに戻ったとき、時の宰相・潘仲藩にこのことを報告したところ、藩宰相は頷かれ、

此西南徼外産。

これ、西南徼外の産なり。

「これは西南方面の境外で見つかるやつじゃ」

とお応えになられた。

甲午年(1774)、南方征伐のことがあったとき、

阮武庸有人皮一副、長大略相等、寔以粟殻。詢諸吏、乃山中所獲者。

阮武庸に人皮一副の、長大略(ほぼ)相等する有りて、まことに粟を以て殻とす。諸吏に詢(はか)るに、すなわち「山中に獲るところのものなり」と。

当時の将軍であった阮武庸のところに、ニンゲンの皮が二そろえ、どちらもだいたい同じぐらいの巨大さのがあって、アワを入れる袋に使われていた。阮が部下たちに「これはいったいなんじゃ?」と問い質したところ、「これは山中で捕まえたものでございます」とのことであった。

当是其種云。

まさにこれ、その種に当たらん、と云えり。

「そいつはまさにこれと同じ種類のやつじゃろう」とおっしゃったのであった。

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越南・范松年・阮敬甫共撰「桑滄偶録」より。いろんなことに詳しい宰相でスバラシイですね。みなさん、この二そろえのニンゲンの皮をかぶれば、ニンゲンに化けられるかもしれませんよ。

筆者らは1802年の阮福映による阮朝の成立ころ(嘉隆・明命年間)の読書人階級の方々です。「桑滄偶録」は彼らが集めたベトナムの不思議話集で、ずっと下って成泰丙申年(1897)に出版された。

 

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