平成28年ごろにはこんな「善」の絵も画いていたんです。この一年でもかなり荒廃してきたのである。
からっ風は寒いなあ。ぶた肝冷斎の着ぐるみ着てるからいいけど・・・。
からっ風に吹かれながら勉強してきたんで、↓の話をいたします。
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・・・鎌倉の北条氏から新田荘に六十万銭を五日の間に徴発せよ、という命令が来たんだそうです。
新田義貞は怒りまして、
奴輩亡状、敢蹈藉我地。
奴輩亡状なり、あえて我が地を蹈藉せんとするか。
「このゲスどもの不埒なること、わしらの土地を踏み荒らそうとするのか」
遣兵捕其吏、梟首里門。
兵を遣わしてその吏を捕らえ、里門に梟首せり。
武者に命じて徴発に来た鎌倉からのゲスを捕らえさせ、首を斬ってこれを荘園の門にさらし首にした。
「うわーい、使いの者をさらし首にちゅるとは。あったまきた」
北条高時大いに怒り、新田氏を討滅せんとす。
新田の一族は集まって評議を開いた。
「利根川を隔てて防衛すべし」「越後の親族のもとに退ぞいて時機を見るべし」
といった意見がありましたが、義貞が弟・脇屋義助進み出て曰く、
坐待強敵、情見形屈則我兵内潰、一敗塗地。使人曰新田氏戕使者而誅死。死一也、寧死於王事。
坐して強敵を待つ、情見(あら)われ形屈すれば我が兵内に潰(つい)え、一敗地に塗れん。人をして「新田氏は使者を戕(ころ)して誅死す」と曰われん。死するは一なり、むしろ王事に死せん。
「この場にいるままで強敵を待って防御するというこちらの作戦がバレて、少しでも押され気味になれば、我が軍は内側から潰滅してしまって、一回負けただけで敗北しきってしまうことになりましょう。そうしたら、世間さまは「新田一族は、鎌倉方の丸腰の使者を殺害して、それで誅殺されたのだ」と嗤いながら言うことでございましょう。どうせ死ぬなら、そんなこと言われるより「天皇陛下をお守りするために全滅したのだ」と言われたいではありませんか!」
「なるほど」「ふむふむ」「いやなんとのう」
「鎌倉を攻めるべし!」
衆以爲然。
衆以て然りと為す。
一族の者たちの意見は一致した。
大館宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義氏、江田行義ら百五十騎、義貞を大将として、
竪旗于邑生品祠前、以挙義焉。
旗を邑の生品(いくしな)の祠の前に竪(た)て、以て義を挙げたり。
荘園の守護神である生品神社の前に征旗を立てて、ここに義兵を挙げたのである。
これが元弘三年(1333)五月八日。
十一日には小手指、十四日・十五日には分倍河原で戦い、十八日には鎌倉を包囲、二十二日には鎌倉府内に攻め込み、
「うわーい、あっという間にやられまちた。ちゃようならー」
と、北条高時らが鎌倉東勝寺で自刃してしまったのである。この間、わずかに二週間。
まことに東西の中世軍事史の常識を破る進軍速度であった。
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「日本外史」巻六「新田氏」より。相変らず「見てきたような」お話でワクワクしますね。このあとのお話は、またいずれかの時にいたしましょう・・・明日から始まる平日に、おいらのココロが耐えきれたならば・・・。