(ダメだ。カナカナのやつ、今日は会社に呼び出されて、だいぶんヤラれたらしく、)
「わしは無能な上に性格も暗いのじゃ」「ダメな存在なのじゃ」「虫けらなのじゃ」
(と、完全にうつ状態になっていて、更新などできそうにありません。情けない。わしだったらもっと強気にやってくるのにな。)
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今日は更新する者がいませんので、ぶたゲームをやっていただきます。
ぶた国に収穫の季節がきた。
この季節、ぶた教会では大量のパンを作り、また消費する。
これに対し、ぶた寺院でも大量のまんじゅうを作り、食べるのである。
さあ、ぶた教会とぶた寺院、どちらの信仰がより豊かなものなのか、争います(2人用)。プレイヤーはそれぞれぶた教会かぶた寺院の信者になり、交代でサイコロを振ってください。
ただし、どちらが振った場合でも、奇数であればぶた僧侶、偶数であればぶた天使が、それぞれ一マスづつ進んで、パンかまんじゅうを食べます。どちらか先に十個目のパン、またはまんじゅうを食べた方が勝ち。
それでは、レディー、ゴー!
どちらも腹いっぱいになったので、争いはやめました。食糧がある間は平和共存することになろう。
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「いったいなんの意図があってこんな「ぶた絵」を見せるのだ?」
「きみ、もう少しいろいろかんがえて行動しろ。職場でもそれで失敗ばかりしていたんだよなあ」
「あははは、ダメなやつは何をやってもダメだな」
「おほほほ」
「いひひひ」
と今日もみなさまの笑い声が聞こえる。
でも、あんまりいろいろ考えてはいけないんですよ。むしろ無心たるべきなんです。
先生嘗語学者、曰、心体上着不得一念留滞。就如眼着不得些子塵沙。
先生、嘗(つね)に学者に語りて曰く、
「心体上に一念の留滞を着し得ず。就(たと)えば眼に些子(さし)の塵沙(じんしゃ)を着し得ざるが如し。
先生は、何度もわれわれ弟子たちにおっしゃったものである。
「心の本体の上には、ほんの一念たりといえども取り残してはいけない。(純粋無心にならないといけない。)何かに喩えるならば、目に、ほんの小さな埃や砂が入ったときのことを考えればわかるだろう。
些子能得幾多。満眼便昏天黒地了。
些子よく幾多を得んや。しかるに満眼すなわち昏天にして黒地にし了す」
ほんの小さなホコリや砂になにごとができるだろうか。ところが、これらが入っただけで、(目を開くことができず)視界は天も地も真っ黒になってしまうではないか」
「先生、何も考えてはいけないのですか。あるいは、悪いことを考えてはいけないのでしょうか」
曰、這一念不但是私念、便好的念頭、亦着不得些子。
曰く、這(こ)の一念はただにこれ私念のみならず、すなわち好的の念頭もまた些子を着し得ず。
おっしゃるに、
「さっき言った「一念」というのは、自分の欲望や利益のための思いだけではなく、いい思いもまた、少しも取り残してはいかんのだ。
如眼中放些金玉屑、眼亦開不得了。
眼中に些(いささ)かの金玉の屑を放(お)かば、眼また開き得ず。
目の中に、ほんの小さな黄金や宝石のかけらを入れたら、やっぱり目を開くことができなくなるからな」
なんですよ。
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「伝習録」下巻135条。これをおっしゃってる「先生」は、王陽明先生ですからね。「思想セレブ」ともいうべき王陽明のコトバなら、さすがのみなさんも心を動かすのではないカナ? (なおわたしは「うまく譬喩を考えるもんだなあ」と感心するにとどまりますが。)