平成29年6月11日(日)  目次へ  前回に戻る

ムシたちが明日が月曜日だからといって何を憂えているであろうか。

もう明日は月曜日である―――とひとびとは言っている。わたしには関係の無いことである。

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なんとなれば、会社とか俗世を棄てまして、わたしは山中に入りましたから。

今日巌前坐、  今日、巌前に坐するに、

坐久烟雲収。  坐すること久しくして烟雲収まる。

 今日、(棲み処である)岩の前に座っていたら、

 だいぶん長いこと座っているうちに、山の中のもややかすみが晴れてきた。

それではっきりと見えてきた。

一道清谿冷、  一道の清谿冷ややかに、

千尋碧嶂頭。  千尋の碧嶂の頭あり。

 ひとすじの清らかなな谷川の冷たく澄み切った流れ。

 千尋のあおみどりに切り立った峰のいただき。

「尋」は人が両手を広げた長さで、「常」はその倍、「尋常」とは取るに足らぬ小さな土地のこと・・・というような解説はここではあんまり関係ありません。「千尋」は「千メートル以上」というイメージです。

この山中で過ごしていると、

白雲朝影静、  白雲は朝影に静かに、

明月夜光浮。  明月は夜光と浮かぶ。

 (朝の霧が霽れたときは)白い雲が朝の光を移してゆったりと流れるのが見え、

 (夕べの靄が霽れたときは)明るい月が夜の光る珠のように浮かんでいるのが見える。

すなわち、現世の蒙昧が晴れて、真実の世界が眼前に現れてきたのだ。

身上無塵垢、  身上に塵垢無く、

心中那更憂。  心中になんぞ更に憂いあらん。

 身の上に何のよごれもございません(俗世との縁は切れている)。

 心の中になんの心配ごとが湧いてきましょうか。

わっはっは。月曜日なんてもう関係無いのだ。

―――すばらしい。まさかこの境遇にいるのが夢で、目が覚めたら現世にいる、なんてことありませんよね。わっはっは。

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「寒山詩」より。

むかしむかし、漢詩や漢文を読み始めて、李白と陶淵明と寒山詩のいくつかだけを田舎の本屋で知った少年のころは、チャイナにはこんな「詩人哲学者」ばかりがいるのだ、と思ってはるかに憧れたものでした。その後徐々に本当の姿を知るに至って、今のようなアンチ・チャイナになってしまったわけですが。どこかでハニーなんとか仕掛けてくれてればなあ。今はもハニーなんとかも効かない身体的状態になってしまいましたからね。

実際にはチャイナだけでなく人生全般についてだいたいアンチなんですけどね。

 

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