平成29年3月8日(水)  目次へ  前回に戻る

色付き亀に運ばれるぽんぽこ像。のどかに見えるが、二匹とも現金収入は無く、服も無ければ野草類以上の食べ物も無いゆとりの無い状態である。

今日は日本代表=オーストラリア戦。NPBにいたヒューズとか出てきて懐かしい。球場に入れないしテレビも無いのですが、野球やっている間は速報が気になってほかのことができないのは困ったことです。

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むかしもすごい日本人がいた、というお話をします。

観音高五丈、本日本国僧転智所雕、蓋建隆元年秋也。

観音の高さ五丈なるは、もと日本国僧・転智の雕(きざ)むところ、けだし建隆元年の秋なり。

建隆元年(960)は大宋国の建国の年に当たります。

建安にある有名な高さ15メートルの「五丈観音」は、もともと日本から来た転智という僧侶が彫刻したもので、それは我が大宋帝国の建国された建隆元年(960)に造られたのであった。

この転智という僧侶はすごいひとで、日ごろから自らの欲望を制し、

不御煙火、止食芹蓼、不衣糸綿。

煙火を御せず、食は芹・蓼に止どめ、糸綿を衣(き)ず。

火を通したものは食べず、セリやタデのような野草類を食べるだけで、糸や綿で作られた服は着なかった。

では何を着ていたかというと、

常服紙衣、号紙衣和尚。

常に紙の衣を服し、「紙衣和尚」と号ばる。

いつも紙で作った服を着ていたので、「紙服おしょう」と呼ばれていた。

ごわごわしますね。

・・・さて、それから200年ほど経ちまして、南宋の高宗皇帝(在位1127〜1162)のとき、

高宗偕憲聖嘗幸観音所。

高宗、憲聖とともにかつて観音の所に幸せり。

高宗皇帝と憲聖皇后が、ともにこの観音像のところに行幸なされたことがあった。

お戻りになってから、信仰心の篤い憲聖皇后は、

即製金縷衣以賜之。

即ち金縷衣を製して以てこれに賜う。

黄金を撚って糸にしたもので作った服を作り、観音像に下賜された。

ところが、

及掛体、僅至其半。

体に掛くるに及びて、僅かにその半ばに至るのみ。

像の体にかけてみると、やっと半分までしか届かなかったのであった。

憲聖皇后は、高宗も養子の孝宗も亡くなったあと、光宗皇帝の廃位という大事件の際に、宮中を取りまとめて混乱を防いだ果断な女性でもありますが、その報告を受けて、ため息をつき、

「われら人間のやること、みほとけにご嘉納いただくのは容易なことではございませんね」

とおっしゃると、

遂遣使相其体、再製衣以賜。

ついに使を遣わしてその体を相し、再び衣を製して以て賜る。

もう一度、使者を遣わして観音像の体の大きさを測らせ、それに合わせてもう一度黄金の服を作って下賜されたのでございました。

・・・というほど、宮中の方々にも崇拝されていたのである。

この五丈観音さま、南宋の終わりごろまでは確かにあったらしい。

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宋・葉紹翁「四朝見聞録」甲集より。「四朝見聞録」は南宋の後半のひと、葉紹翁(字・嗣宗、靖逸と号す)が南宋の高宗(在位1127〜62)、孝宗(在位1162〜89)、光宗(在位1189〜94)、寧宗(在位1194〜1224)の四代の朝廷の事件を書き留めたもので、朝廷の動きから民間の逸事まで、いろいろとオモシロいんです。

本がオモシロいのはいいことですが、オモシロくないことに、しごとについに火が点いた。明日おいらも呼ばれてやられるらしいよ。

 

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