平成29年2月20日(月)  目次へ  前回に戻る

だいぶん花粉が飛んでいるようですが、カッパは水中にあってしかも鼻水垂らしてぬるぬるしているので花粉症にならないようです。楽しいね。カッパは人生楽しいことばかりであろう。

うっしっし。会社行ってません。もう辞めちゃうからね。これからは人生楽しいことばかりにちがいない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

君不見陶淵明、田園帰去栽五柳。 

君見ずや陶淵明、田園に帰去して五柳を栽うるを。

又不見劉伯倫、幕天席地只耽酒。 

また見ずや劉伯倫、天に幕し地に席してただ酒に耽けるを。

あなたは、ごらんになりませんでしたか。陶淵明さまが、「田園は荒れ果ててしまった」と言って郷里に帰り、五本の柳を植えて暮らしていたのを。

あるいは、ごらんになりませんでしたか。劉伯倫さまが、天に幕を引き地にむしろを敷いて、そこでただ酒ばかり飲んでいたのを。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

陶淵明は役所勤めをしていたが、わずかな給料のために同郷の後輩にまでへいこらできぬ、と言って「帰去来兮辞」を作って実家に帰ってしまい、その後「五柳先生」と名乗って悠々自適の生活をした。竹林の七賢のひとりとされる劉伯倫(劉伶)は、

恒縦酒放達、或脱衣裸形在屋中。

恒に酒を縦ままにして放達、あるいは脱衣して裸形屋中に在り。

いつも酒を好きに飲んでいてて自由きまま、時には服を脱いで、家の中で裸になっていた。

人見譏之、伶曰、我以天地為棟宇、屋室為褌。諸君何以入我褌中。

人見てこれを譏るに、伶曰く、「我は天地を以て棟宇となし、屋室を褌と為す。諸君、何を以てか我が褌中に入るや」と。

ひとがこれを見かねて注意しに来たところ、劉伶は言った、

「おれは天地を屋敷だと思っとるんです。部屋はふんどしだと思っとるんです。あんたらはおれのふんどしの中に、何しに来ましたのか」と。

「世説新語」第二十三より。酔っ払ってるんだからしようがありませんね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

嗚呼人生可楽不在鐘鼓与塤箎、鳥声虫語自然奇。

嗚呼、人生楽しむべきは鐘鼓と塤箎(けん・こ)に在らずして、鳥声・虫語自然に奇なり。

嗚呼人生可楽不在玉食与錦衣、野蔌渓毛療我饑。

嗚呼、人生楽しむべきは玉食と錦衣に在らずして、野蔌(やそく)・渓毛(けいもう)、我が饑を療(いや)さん。

ああ。人生において楽しむべきことは、鐘や鼓や塤(つちぶえ)・箎(たえぶえ)(のような人工の音楽)には無く、鳥の声や虫の音がおのずからのおもしろさを持っているにこそ在るのではなかろうか。

ああ、人生において楽しむべきことは、玉のような食い物や錦製の着物には無く、野原の菜や谷川で採れる苔の方が、わたしの飢えを満たしてくれるのではないだろうか。

大きな馬車で意気揚々と町なかを過ぎるより、かやぶき・竹の軒の家で風と日を避けながら、「易」の書物一巻を読むばかりの生活をして、世俗の苦悩から離れている方がよい。

秋夜月、春日花、花斟酒、月煮茶。

秋夜の月、春日の花、花には酒を斟み、月には茶を煮ん。

 秋の夜には月を楽しみ、春の日中には花を愛でる。花の下では酒を酌み、月のもとでは茶を淹れよう。

乾坤何処無江山、四序何時無風烟。

乾坤何れの処にか江山無く、四序いずれの時には風烟無からん。

 天地の間、どこに山や川のすばらしい景色が無いところがあろうか(どこにだってある)。春夏秋冬の四つの季節、どれひとつとして風や靄のような自然現象を伴わないものがあろうか(どの季節にもそれぞれの風趣があるのだ)。

人生一日得真楽、一日之日千万年。

人生一日真楽を得れば、一日の日千万年。

 人生において一日でもほんとうの楽しみを持れば、その一日こそ千万年にも値しよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇野南村「可楽行」(楽しむべきのうた)(「東瀛詩選」巻三十五所収)。景気がよくていいうただなあ、と思ったけど、最後だけちょっと景気が悪いですね。一日しかほんとうの楽しみが無い、ということがありましょうか。これからの人生はすべての日がほんとうの楽しみになるはずなのに。

南村・宇野士方(名は義以)は美濃・大垣のひと、梁川星巌門下、玉池吟社に所属した。慶應二年(1866)、五十四歳にして没す。「南村遺稿」二巻あり。

 

次へ