あしたにお取りつぶしを受ければ、夕べには死する可能性あり。
旧一月十五日の満月がでかい。元宵節だというのに寒い。凍える。道もまだ聞いていないのに、凍えて死んでしまうかも・・・。
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子曰、朝聞道、夕死可矣。
子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死するとも可なり。
先生がおっしゃいまちたー!
「朝、道を聞けたら、夕方には死んでもいいなあ」
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「論語」里仁篇の美しいコトバでございます。
朱晦庵先生の「論語集注」(A)に曰く
道者事物当然之理、苟得聞之、則生順死安、無復遺恨矣。
「道」なるものは「事物当然の理」なり、いやしくもこれを聞くを得ば、すなわち生は順に死は安らかにしてまた遺恨無きなり。
「道」というのは、「ものごとがどうしてそうなっていくのか、という宇宙のことわり」でありまちゅからね、もしもこの「ことわり」を教えてもらえたなら、それにしたがって納得して生き、安らかに死ぬことができ、そこには何の恨みも残りませんよ。
と。
なお、
朝夕所以甚言其時之近。
朝・夕というは、以てその時の近きを甚言する所なり。
「朝」と「夕」というのは、その二語で時間的な短さを的確に言おうとしたものでちゅな。
のだそうです。
ああ、理想に向かって進み、世界の秘密を聴ければすぐ死んでもいい、なんて純粋でかっこいいなあ。
・・・・・・と、普通には思うのです。しかし、孔子という人はそんな、高校生みたいに単純なひとだったのだろうか、という気もしますね。
実はこの短いコトバについても別の解釈をしている人もいるんです。いるんです、というか宋の儒者たちが朱子がまとめたような読み方をするまでは、別の解釈の方が主流であった。
梁・皇侃の「論語疏」(B)に曰く、
道所以済民、聖人存身、為行道也。済民以道、非以済身也。
道は以て民を済(すく)うところなり。聖人身を存するは道を行うがためなり。民を済うに道を以てし、以て身を済うにあらざるなり。
「道」というのは、(古代の王たちが行っていた)民の生活をよくするための制度のことなんでちゅな。聖人さまたちが生きているのは、この「道」を実施するためなんでちゅ。つまり、民の生活をよくするために「道」を使うのであって、それによって自分個人をよくするものではないんでちゅよ。
故云誠令道朝聞於世、雖夕死可也。傷道不行、且明己憂世不為身也。
故に云う「まことに道をして朝に世に聞こえしむれば、夕べに死するとも可なり」と。道の行われざるを傷み、かつ己の世を憂うにして身のためにせざるを明らむるなり。
だから孔子はおっしゃったんでちゅな。
「ほんとうに「道」を朝、社会全体に教えることができたら、夕方には死んでもいいんだけどなあ」
と。それは、「道」が実施されないのを悲しみ、また、自分は社会のことを心配しているのであって、自分ひとりのためにやっているんではないのだ、ということをはっきりさせた、というわけなのでちゅよ。
・・・Aの朱子の解釈とまったく違っていますが、宋以前はこのBの解釈に法らないと科挙試験に受からなかったんです。
確かに、自分ひとりがよくなればいいや、というのは仏教や老荘の考え方ですからね。
一方、これに対しては朱子も反論を用意している(「論語或問」)んですが、長くなるのでこのへんでやめておきます。明日からまた会社なんで。(泣)
さて、このコトバをAの朱子のように理解して、早速?仏教のひとが賛同しておられますよー。
・・・夜の講義の際、お師匠さま(道元禅師)がおっしゃった。
―――「朝、道を聞くことができれば、夕べに死んでもいいなあ」というむかしのひとの言葉がありまちゅるが、今仏道を学ぶひとも、この心でやらねばなりませんぞ。おいらたちは、永い永い時間、何度も何度も輪廻して、無駄に生まれ、無駄に死んできているのでちゅ。今、たまたまニンゲンに生まれ、ありがたい仏法を聞くことができたわけでちゅが、
いかにしても死に行くべき身を、心ばかりに惜しみたもつともかなふべからず。遂に棄て行く命を、一日片時なりとも仏法のためにすてたらば、永劫の楽因なるべし。
どうやったって、おいらたち、最後は死ぬわけでちゅよね。心の中でどれだけ「生きていたい」と惜しんだとて、そうはイカのきんたまなんでちゅから、最後には棄てなければならない命、一日でも少しの間だけでも仏法のために棄ててしまいまちょ。すると、永遠の快楽のもとになりまちゅよ。
あとのこととか、明日のこととかを考えて、捨てるべき現世を捨てず、行うべき道(仏道修行)を行わず、日夜を無駄に過ごすのはもったいないことではございませんか。
ただ思ひ切って、明日の活計なくは餓え死にもせよ、寒(こご)え死にもせよ、今日一日道を聞いて仏意に随って死なんと思ふ心を先づ発(おこ)すべきなり。
ここでずばばん、と思い切ってちまいまちょー。明日の生活が成り立たないなら飢え死にしてちまいまちょー、凍え死んでちまいまちょー。今日一日、仏道を聞き、今日のうちに仏の教えに従って死にまちょー! という心をまずおこすべきでちゅな。
出家して仏法を学んでいるくせに、
なほしり足をら踏みて、夏冬の衣服等の事をした心にかけ、明日明年の活計を思うて仏法を学せんは、万劫千生学すともかなふべしとも覚えず。・・・
まだ尻込み足などを踏んで、夏や冬の着るもののことを心配したり、明日の生活、来年の生活のことを考えながら仏法を学ぶようでは、一万劫の時間に千回生まれ変わってきて学んでも、仏となることはできますまいと思われまちゅる・・・。
「正法眼蔵随聞記」巻三より。この道元禅師のコトバの胸をうつ打たないは別に、Aの解釈無しにはこのコトバが成り立たないのがおわかりいただけましょう。
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というあたりで今日のお話はおしまい。明日会社だからなあ。。。(号泣)