「ぶたとの、お命ちょうだい!」「ぶー、立春じゃ、めでたい、めでたいのう」ぶたとのをやっつけてもあまり意義はない。
春が来たのであたたかかったですね。今日は学生時代の仲間とあって美味いスシ食った。土曜日だし、今日はめでたかったなあ。
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さてさてインドのむかしむかし、お釈迦さまがおいでになられたころのこと、
有一盲比丘、眼無所見、而以手縫衣、時針衽脱。
一盲比丘有り、眼に見るところ無く、手を以て衣を縫うに、時に針衽(しんじん)脱す。
目の見えない僧侶があった。彼の目はまったく見えないのであるが、手探りで服の破れを繕っていた。その時、糸が針の穴からはずれてしまった。
ああ。
僧侶は嘆いて言った、
誰愛福徳、為我衽針。
誰か福徳を愛して、我がために針を衽せん。
「どなたか功徳じゃと思うて、わしのために針に糸を通してくださらんものかなあ」
しばらくすると、足音がして、誰かが比丘に声をかけた。
我是愛福徳人、為爾衽来。
我はこれ福徳を愛するの人なり、汝が為に衽し来たれり。
「わたしは功徳を大切にしたいので、おまえのために糸を通そうと思ってやってきた」
僧侶はその声に聞き覚えがあった。「おお」と呻いて、
疾起著衣。
疾く起ちて衣を著く。
大慌てで立ち上がり、(縫いかけの)服を羽織った。
「ブッダさま!」
それは遥か彼方の地で説法していたはずのお釈迦さまだったんです。
僧侶は
礼仏足、白仏言、仏功徳已満、云何言愛福徳。
仏足に礼し、仏に白して言う、「仏は功徳すでに満てり、云何(いかん)ぞ言う、福徳を愛す」と。
ブッダのおみ足を持ち上げる礼拝をしてから、申し上げた。
「ブッダさまは功徳がすでに満杯になられてブッダとなられたのでございましょう。どうしてこれ以上の功徳をおお求めになられるのか」
お釈迦さまはお答えになられました。
我雖功徳已満、我深知功徳因功徳果報功徳力。今我於一切衆生中得最第一、由此功徳。是故我愛。
我は功徳すでに満てりといえども、我は深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知れり。今我の一切衆生中において最も第一なるを得るも、この功徳に由る。この故に我は愛するなり。
「わたしは功徳がすでに満杯になっておる。しかし、わたしは、ようくこの功徳を積む方法、功徳の効果、功徳の力というものを知っている。今、わたしが生きるものすべての中で最高の存在であるブッダになれたのも、功徳のおかげなのだ。だから、わたしは功徳を大切にしたいのである」
こう言ってお釈迦さまは僧侶に功徳を積むことの重要性を説きたもうた。
「ありがたいことにございます」
僧侶は見えぬ目から涙を流したのであるが、そのとき、
是比丘、得法眼浄、肉眼更明。
この比丘、法眼の浄なるを得、肉眼更に明らかなり。
僧侶の法のまなこが清らかとなって、その肉眼もそれ以上に清まり、視力を取り戻したのであった。
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「大智度論」十より。お釈迦さまはありがたいなあ。
じつは「正法眼蔵」(供養諸仏篇)からの孫引きです。道元さまは、チャイナのお寺で、先生の夜の説法の中でこの話を聞いた。その後、書物を読んでこの話に行き当たった。このお話を見れば、すべてのものは実在(「諸法実相」)し、原因は結果を生む、因果は必ず応報する、ということが明らかである、とおっしゃっておられます。
本日、昨年から読んでいた岩波文庫・水野弥穂子校注「正法眼蔵」全四巻を読了いたしました。ためになるとかありがたいとかいう前にオモシロかったでちゅー。実は平成七年ごろに読み終わっていた、と思っていて、昨年から再読のつもりで読んでいたのですが、第四巻に至ってまだこの巻を読んでいなかったことに気が付きました。昔なんで第四巻だけ読まなかったのか覚えておりませんが、何の因果か読んでおらなかったのです。今ようやくこれを読み終えて、何かの因になるといいなあ。
仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をもうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。
ブッダとなるのに、たいへん簡単な方法がある。いろんな悪因をつくらないようにし、生死にこだわる心を無くし、生きとし生けるものたちに対して憐れみを深く持ち、上の人を敬い、下のひとを憐れみ、どんなこともいやがらず、欲望を持たず、心にかかることもなく、心配ごともない。―――こういうひとをブッダ(悟れるもの)というのである。このほかに何かを求めようなどと思ってはなりませぬ。
付巻「正法眼蔵」生死篇より。第四巻まで読み終わらなかったら、こんなコトバの存在も知らずに世を終えるところでした。あぶないあぶない。