平成28年12月11日(日)  目次へ  前回に戻る

カッパカフェでくつろぐカッパ。われわれも休日はこういうカッパらしいというかニンゲンらしい生活を送りたいものである。

ほんの一日半だけニンゲンらしい生活をしていた、と思ったら、もう明日は平日だ・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

作麼生(そもさん)! ↓のひとはニンゲンらしいでしょうか否か。

百丈懐海は福州長楽のひとで、馬祖道一の法を嗣いだお方である。

その懐海和尚は百丈山で説法をしていて、聴衆の中になんとも言い難いひとがいるのに気が付いた。そのひとはニンゲンのようでもあるし、そうでないようにも思われるが、見た目は確かにニンゲンの老人である。いつも、懐海の説法が始まると何処からともなくやってきて、ひとびとの一番後ろで聴いている。説法が終わるころには、ふと退席していなくなってしまう。

この老人が

一日不退。

一日退かず。

ある日、説法が終わった後も退席せずにそのまま座にいた。

(何かあるのだな)

と感づいて、和尚は老人に訊ねた。

面前立者何人。

面前に立つものは何びとぞや。

「そこにおられるのはどなたかな?」

老人は一瞬たじろいだふうにも見えたが、静かに答えた。

某甲非人也。

「某甲は人にあらざるなり」

「わたくしはニンゲンではございませぬ」

「は?」

と和尚は驚きましたが、老人はコトバを続けた。

過去迦葉仏時曾住此山、因学人問、大修行人還落因果也無。

過去迦葉仏の時、曾てこの山に住せしに、因りて学人問うらくは、「大修行人また因果に落つるや無きや」と。

遥か何万年も過去に迦葉(かしょう)ブッダが出現され、(今のように仏教が興ったときに、わたしはあなたのように)この山で住職をしておりました。そのとき、一人の修行者がやって来て、わたしに質問しましたのじゃ。

―――すごい修行をして真理を得た人は、死んだあとやはり因果に支配されるのでしょうか、そんなことは無いのでしょうか。

と。

そこで、

某甲対曰。

某甲対(こた)えて曰えり。

わたくしはこう答えたのでございます。

不落因果。

因果に落ちず。

―――因果に支配されることはない。

・・・この一言のために、その時以来、

五百生堕野狐身。

五百生、野狐身(やこしん)に堕つ。

五百回も生まれ変わって、ずっと野生のキツネとして生きることになってしまったんですわ。

そこで、

今請和尚代一転語、遂理前問。

今、和尚に一転語を請い、遂に前問を理(おさ)めん。

和尚、あなたにわたしの答えを修正してもらって、前回の質問の正解を知りたいのでございます。」

さあ、これは大変なことになりました。間違った答えを言いますと、この老人を救えないだけでなく、懐海和尚自身も五百回ぐらい、何かに生まれ変わってこの現世に彷徨わねばならなくなるかも知れません。

老人曰く、

「では、行きますぞ・・・、和尚、質問じゃ。

大修行人還落因果也無。

大修行人また因果に落つるや無きや。

すごい修行をして真理を得た人は、死んだあとやはり因果に支配されるのでしょうか、そんなことは無いのでしょうか」

懐海和尚、即座に曰く、

不昧因果。

因果に昧せず。

―――(真理を得た人は)因果に悩まない。

「!」

老人言下大悟。

老人言下に大悟す。

老人はその一言で、大いなる悟りを得た。

作礼云、某甲已脱野狐身、住在山後。乞依亡僧事例。

礼を作して云う、某甲すでに野狐身を脱し、山後に住在せり。乞う、亡僧の事例に依らんことを。

和尚を礼拝して、言った。

「わたしはもうすでに野狐の生を脱け出すことができました。山の裏におります。どうぞ、僧侶が死んだときの儀礼を以て葬っていただきたい」

そう言うと、老人の姿はすうっと消えた。

懐海はおもむろに、

令維那白槌。

維那をして白槌せしむ。

「維那」(いの)は禅寺の修行関係の取りまとめ責任者。「白槌」は砧(ちん)を木槌で打って、修行僧らを堂に集めること。

修行の幹事に砧を叩かせて、寺中の僧侶を集合させた。

集合した僧侶の前で、

食畢送亡僧。

食畢らば亡僧を送らん。

「昼飯のあと、亡くなった僧侶を葬る儀礼を行うぞ」

と言った。

衆皆怪訝云、又無人遷化、何得送亡僧。

衆みな怪しみ訝がしんで云う、「また人の遷化する無し、何ぞ亡僧を送るを得んや」。

僧侶らはみんないぶかしみ、不思議に思って言った。

「最近亡くなったひとは居らんはず。どうやったら亡くなった僧侶を葬ることができるのか」

昼飯のあと、

師領衆至山後岩下、以拄仗挑出一死狐、依法火葬。

師、衆を領して山後の岩下に至り、拄仗を以て一死狐を挑出して、法に依りて火葬せり。

和尚は僧侶たちを引き連れて山の裏の岩の下に行き、杖で岩陰から一匹のキツネの死骸を引きずり出し、しきたりどおりに火葬したのであった。

和尚は葬儀を終えた夕べ、まだ腑に落ちてない僧侶たちに、そのキツネの正体を話したのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宋・釈悟明編「聯灯会要」巻四・百丈懐海章より。「聯灯会要」は歴代の禅僧(お釈迦さま以前のひとから始まる)の言行録のダイジェスト版なので、種本である「広灯録」や「五灯会元」にも載っている「野狐禅」の語源になった有名なお話でございます。(「不落因果」と「不昧因果」を、上述のように「因果に支配されない」「因果に悩まない」と訳してしまうのはあまりにいい加減に過ぎないか、という疑問が沸く向きもあるかと思いますが、もう夜も遅いので御寛恕ください。お願い。なむあみだぶつ。)

禅は合理的なので、荒唐無稽の非科学的なことを嫌がりますが、この話はドウブツが老人に化けて説法を聞きに来る、というすこぶる荒唐無稽な設定になっています。しかし、実は「※」のところまでは懐海和尚の作り話だと考えればよろしいので、キツネの死骸をどこかから持ってきたか、そこにあったのを見つけたのか知らんが、山の裏の岩の下にあるのを知って、そこへ僧侶どもを連れて行って不思議に思わせ、夕方に種明かしのように老人の話をして、「不昧因果」というテーゼを考えさせる、という手の込んだ説法なのでしょう。懐海和尚もいろいろ工夫して教育していたんだと思います。

・・・などと言ううちに、もうすぐまたも「月曜日」という因果に落ちていくわれらであった。

 

次へ