フィールドワーク録17 (起:平成28年1月2日(土))  目次へ  平成27年1月〜12月へ

ほんとは南の島に行きたいが、どこにでも行きます。

1月2日(土)

○南伊勢町礫浦(ささらうら)八幡神社

6世紀ころからの遺跡が出ている土地である。八幡社裏手の宮本古墳。環頭太刀も出たらしい。

1月9日(土)〜10日(日)

喜界島探訪

○御殿(うどん)の鼻 ・・・ 琉球王府軍を迎え撃った喜界島勢の本陣だったという。

前方は港になっている。

○俊寛墓

右の覆屋の下にあるのが伝・俊寛の墓。左に俊寛像。墓中から発見された人骨をもとに作ったそうです。
しかし、おそらく俊寛の流されたのは薩摩硫黄島であろう。喜界島は地形も風土もきわめて温和なので、もしここに流されたのだとしたら、俊寛が「都に帰りたい」などと思うはずがない、と思われます。おいらももう帰りたくないよう。

○ウリガー(降り泉) ・・・ ゲゲゲじゃんぐるの中にあり。

○郷土資料館 ・・・ すばらしい。特にキカイ馬のことなど教えられた。有名な「九字石敢当」があるが、惜しむらくは九字の部分が欠けている。

←祝女(ノロ。ただしこの資料館では「野呂」と表記)の所持物→

○大谷竃(うふやーがま) ・・・ 鍾乳石や石筍は旧軍が防空施設にするときにぶっ壊したらしい。平成17年にドラマ「実録・小野田寛夫」のロケ地になったという。すばらしかった。

表口から入っていくと、谷に向って口が開いているんです。

○城久(ぐすく)遺跡 ・・・ 11世紀ごろの巨大遺跡。南島史を書き直しつつあるという。

○雁俣の泉 ・・・ 為朝さまの矢が突き刺さったところに沸いた泉という。

ちょっと昇ったところから見下ろす。

○ムチャ佳那公園 

○仲泊浦 ・・・ 平家落ち武者200余騎が上陸したところだそうです。

すぐ裏に菅原神社(天神社)あり。無事上陸したことを感謝して祀ったという。

○七城趾 ・・・ 平家が根拠地にした。

地図に乗っていないので、この立て札探すのに往生した。左の立て札裏のゲゲゲの森が虎口になっていて、草木をかき分けると中は土塁に囲まれた100平米ほどの茅畑になっている。平家はともかく、中世居館の跡地であるとは見てとれた。

○平家森 ・・・ 同上。数年いて、さらに奄美大島に逃げたのだそうだが、志戸桶と佐手久には子孫が遺ったということである。

「招魂碑」が立つ公園になっている。近くに平家の「修練場」があった、というのだが・・・。

参考→貴賀井島征服(「吾妻鏡」)

○芭蕉句碑(佐手久) ・・・ 苦しい藩政時代にこのような文化を愛する風潮があったのだ、ということだそうです。

なんという句だったかメモするの忘れた。

○百の台公園 ・・・ 標高200メートルの段丘上から海岸を見下ろす。30年前、岡本全勝さんも来たらしい。

南の方。太平洋。晴れていたら更に美しかったであろうと思う。東の方。

○喜界四十八社 (藩政時代にはこのうちの七つが「喜界七社」だったらしいのだが) ※発見し参拝できた30社には●がついております。それ以外はまたのお楽しみ。

湾  ●金刀比羅宮 ●高千穂神社 ●水天宮

中里  保食(うけもち)神社

池治 ●保食神社

中間 ●住吉神社

先内 ●保食神社

中熊  保食神社

坂嶺 ●保食神社

西目 ●水神社

島中 ●保食神社 ●水神社

滝川  保食神社  水神社

城久 ●鹿児島神社 ●保食神社

山田  保食神社

羽里  保食神社

伊実久 ●厳島神社

小野津 ●八幡神社 ●保食神社  水天宮

志戸桶 ●弁財天  ●菅原神社 ●保食神社

佐手久 ●保食神社

塩道   クンビー神様 ●御権現宮 ●高千穂神社

白水  ●保食神社

嘉鈍   馬頭神社 ●保食神社

阿伝  ●住吉神社

蒲生  ●天降神社

花良治  高尾神社

川嶺   弁財天 ●保食神社  松尾神社

浦原・先山   保食神社  水神社

上嘉鉄 ●保食神社  水神社

手久津久 ●朝戸神社 ●花尾神社

荒木  ●保食神社

○巨大ガジュマル

喜界のたから、とされる手久津久(てくつく)のガジュマル

1月11日(月)

奄美大島にて

○和野フーデ(和野集落の願立ての地)

○フーグスク

○田中一村記念館

1月17日(日)

伊豆下田

○下田郷土資料館

○吉佐美八幡社 ・・・ イスノキの名樹あり。式内・加彌命神社等の論社。古い祭祀遺跡があるはずだが・・・。なお、源三位頼政は宇治川で死せず、この地に落ち延びて天寿を全うした、という。

右下の電動自転車を借りて移動。

○大賀茂走湯神社 ・・・ はしりゆではなくて「そうとう」神社です。式内・伊豆奈比v(いつなひめ)神社に比定。村の道路脇を少し石段を昇ったところにこんもりと繁った林があってその中に鎮座す。石段脇には水仙の花が咲いていた。

あたたかい日だったらいいところだったと思うのですが・・・。

○高馬竹麻神社 ・・・ 「ちくま」神社。式内・竹麻神社、同・多祁伊志豆伎命神社の論社。

裏の山が本来のご神体かも。

○了仙寺・黒船博物館 ・・・ 黒船関係もあるのですが、なにより明治〜大正期の児童向け「ポンチ絵本」の現物が展示されていて、興味を惹く。英国のパンチ誌の風刺画に影響されたジャパン・パンチの風刺画にさらに影響されて、コドモ向けに物語や知識を一コマ〜数コマに修めて説明する画で、四コマやのらくろなどのコマ割り漫画の原型とされる。これをみると、説明内容等を理解しやすく図解したものを「ポンチ絵」と呼ぶ印刷業界用語(→その後各種業界に拡散。ただし死語になりつつあるが)がやっと理解できました。単なる「風刺画」じゃなくて、「説明するための画」なんですなー。

1月24日(日)

伊東に来ました。寒いです。しかし「うずわ」美味かった。

○伝・伊東佑経墓 ・・・ 少なくとも鎌倉時代の五輪塔だそうです。

○葛見神社 ・・・ 式内・久豆彌神社に比定さる。クスノキの巨木あって神さびていました。

伊東城趾と言われる高台(現市役所あたり)を降りてきたところにある。でかさが伝わらないと思いますが、でかかった。

○音無神社 ・・・ 源頼朝が最初流されたいた地で、伊東佑経のムスメ・八重姫との邂逅の場であった、という。

晩秋に行われる「奇祭・尻摘み祭り」で有名なんだそうです。ご覧のようにたくさんのひしゃくが奉納されているのですが、すべて底が抜いてある。

○三浦按針像 ・・・ 大川川口(現・伊東港あたり)で帆船作ったんだそうです。うち一隻はメキシコまで行った。

○木下杢太郎記念館(米惣) ・・・ 兄貴の太田円造(復興院土木部長、現職で自殺)の方が最近では有名になってしまった感じもありますが、杢太郎(本名・太田正雄)も帝大医学部教授在職中に病没の偉いさんだったんです。

木下杢太郎生家。

○東海館 ・・・ 昭和初期の木造温泉旅館を改造して博物館みたいにしているところ。おもしろかった。お風呂も入れた。今日は寒くて湯冷めしましたが。

大川側から見た東海館。展望台もある。こんな部屋で、へへ、しっぽりといきたいもんでガスね。

1月31日(日)

○鋸山(乾坤山日本寺)

登山前に金谷神社に参拝。ところでみなさん、「乾坤茶器の世」て知ってますか?

それからロープウェイで登山。

ときおり日が射すのですが基本的には寒かった。
地獄のぞき。百尺観音。

奥の院・無漏窟。薬師如来坐像。通天窟。

ほかにもいろいろ。まことに何度来ても、「のこぎり山は目をひきにけり」(大田蜀山人)である。

降りは歩いて保田へ。

○加茂神社

○保田神社 ・・・ 十六世紀・天文年間創設。ヤマトタケル尊を祀る。

創建時は保田城の馬場であったという。

最後は舘山でご禁制品を・・・

2月6日(土)〜7日(日)

式根島調査を敢行。

○泊神社 ・・・ 延喜式内。この島が無住の時代から、道の口の大后を祀る。

島内には縄文遺跡も出ているので、人が行き来したのは古くからなのであろう。←伊豆の島々の神社拝殿の左右には必ずあるこの三石が、ここは社内四隅にあった。

○泊湾 ・・・ 古くからの港で、もともと神社はこれを見下ろす地に鎮座あったという。宇喜多秀家が八丈島に流される途中風待ちをしたところという。明治の築港跡も見られる(漁港として日本で最初に整備されたということである)。

←真ん中へんの岩やその向こう側の岸壁は人工物(明治の港湾設備)らしい。

○神引展望台 ・・・ 宿のご主人に「ここから見渡せば嫌なことも忘れられる」と教えられて行ってみました。富士山から御蔵島・神津島までみはるかせて息を飲む絶景であった。だが、イヤなこと(職場など)は忘れられぬ・・・。

真下が神引(かんびき)湾。その向こうが大浦、その向こうが中浦、岬を回ると上の泊湾。新島や利島が見えますね。これは展望台の少し上にあった「丸山方位石」。伊能測量隊が作ったということである(ただし元のものは戦時中に軍が壊してしまい、今のものは復原されたものだそうです)。

○地鉈温泉 ・・・ 明治の開拓者たちが開いた露天温泉。とにかく熱いので、海水の入ってくるところを探して入る。

地面を鉈(なた)でわったような谷の先にある、ということで、名づけられたそうです。あたりの岩壁には、いろんなひとの記念書きが刻まれていた。

○大王神社

新島に向って建っている。新島にある大王神社を新島からの開拓者たちが分霊したものであろう。近くに旧東京湾汽船(東海汽船の前身)が直営していたという式根島温泉ホテル(空襲で壊滅)があったそうです。

○塩釜さま

海岸べりにあった。江戸時代、新島から塩の出づくりが行われていたが、塩年貢をごまかしたと疑われた島民がぐらぐらと煮える塩釜に飛び込んで、その潔白を明かしたという。その御霊を明治になって祀ったもの。このあたりが江戸時代の塩釜あとという。

○まいまいづ井戸あと

←かなり深い。開拓者たちの水への苦労が偲ばれる。(現代は新島から海中管で引水とのこと)

すごい勉強になった。食い物もすごかった。

3月6日(日)

ちょっといろいろありまして、しばらくフィールドワークができませんでした。

○千葉市郷土資料館(千葉城) ・・・ 今年は千葉開府890年の記念の年なんだそうです。ここの郷土資料館は千葉氏の履歴に詳しく、妙見信仰についても解説があって勉強になります。20年ぶりぐらいか。妙見信仰は古代朝鮮からの来歴があるんですよ。ご存知ですかな?
←空にむかって鏑矢を射るのは千葉常胤、なのであろうか。

○お茶の水 ・・・ 千葉城(亥鼻城)の麓に湧いている泉。ここで石橋の闘いから房総に逃げてきた頼朝さまを千葉にお迎えし、ここの清水にてお茶を淹れたところ、頼朝さまからお褒めがあったので、ここを「お茶の水」と呼ぶのだそうです。

←が、わざわざ「この当時には喫茶の風習はなかった」と解説に書いてありました。

3月20日(日) ・・・ 名古屋フィールドワーク

○徳川美術館・蓬佐文庫

3月21日(月) 

○岩村歴史資料館 ・・・ 佐藤一斎、下田歌子、三好学など。

○岩村城 ・・・ 日本三大山城の一として有名ですが、九州の山城の広壮さに比べるとちょっと迫力不足な感じ。700年間ずっと使われていた、というのはすごい。

(写真準備中)

○中山道広重美術館

4月24日(日)

山形にて

○牛前の渡し ・・・ 牛山(月山)の手前で最上川を渡る地。古来の要衝地で「長者屋敷」伝説あり。小野小町も滞在したという。

長者屋敷あと。ここに小町がのう。あでやかに、のう。ぐふふ。

○慈恩寺 ・・・ 重要文化財の本堂、三重塔などの建物や多数の仏像あり。すばらしかったです。国立博物館で2体見た薬師十二神将が手で触れるぐらいの距離で並んでいた。すごい名作である。
慈恩寺山門。二階部分で無形重要文化財の慈恩寺舞楽が奉納されるそうです。

慈恩寺本堂本堂回廊。(ここから内陣の仏像は撮影禁止)

慈恩寺三重塔。

○山形城(霞城) ・・・ 本丸修復中。

最上義光公像。

○旧済生館 ・・・ 三島通庸が作らせた洋風病院。

5月3日・4日

○西宮市郷土資料館・大谷美術館

○一の谷古戦場あと

近くには源平合戦800年記念碑もあり。

○神戸ポートタワー

高いところ嫌いなのに、やっぱり昇ってしまった。

○海洋博物館・カワサキ館

千石船模型など。

5月5日

○石水博物館(「川喜田半泥子の旅」展)

○三重県立美術館(「猫まみれ」展)

○偕楽公園

・斎藤拙堂先生顕彰碑(三島中洲撰文)

・松本宗一功績碑(伊勢新聞創設者、後藤象二郎篆額、重野成斎撰文)

5月6日

○石舞台古墳 ・・・ 少年期からの憧れの地にようやく到着。

○岡寺 ・・・ 塑像・如意輪観音菩薩でかかった。

○岡本寺

○県立万葉民俗館

5月7日

○生駒山宝山寺 ・・・ 聖天さん。いろいろ感動的。
背後に窟屋。

6月5日(日)

○上野を散策

←中国○産党のチ○ット侵略の証?上野大仏(の残存部分)。鼻がでかくあらせられる。

○浅草も散策

いつかこれに昇りたい・・・が、今日は下から見上げるだけにした。言問橋のあたりから見るスカイツリー。浅草寺。ふらついているうちにまた日曜日が終わる・・・。明日がコワいんでちゅう。

6月18日〜19日

東海地方在住のFH氏と調査

○名古屋港

太鼓の練習?をしているグループの音に誘われて夕暮れの名古屋港を散策したぜ。潮風に吹かれると海のオトコであったことを思い出してしまうぜ。暮れてゆくぜ。(土曜日だったから夕暮れも心地よかった)

○ノブナガさま紀行

・桶狭間古戦場跡・・・FH氏のおすすめにより桶狭間へ行ってみる。

古戦場跡公園。左が少年のノブナガさま。右がかっこいい今川義元さま。「近世の曙」という題の銅像であった。そうか、近世の曙だったのか・・・。なお、この公園地は今川本陣の置かれた桶狭間山(近世までは桶廻間山)の麓にあり、義元さま討ち死にの田楽狭間に比定されているようです。義元さま首洗い泉などあり。
首検分後の今川軍将士の亡骸を葬ったという七つの穴(七ツ塚)の記念碑(一つなのか、それらを宅地造成時に集めなおして祀ったのかよくわからない)。

・岐阜城・・・名古屋市内での用務が取りやめになってしまったので、岐阜城へ行ってみた。

板垣退助遭難の地でもある。明治期の模擬天守よりはずっと戦国山城の天守っぽい復興天守。

天守よりはるかに長良川を望む。はるかに一掬の涙を伝え、わがために伊勢湾に達せよ。

7月23日(土)〜24日(日)

○弘前市内

・弘前城 ・・・ 曳家にて仮天守台に移されている。
こちら側(普段お濠側になって見える方)はかっこいい破風づくり。ところが、

裏側はこのように(松前城天守と同様に)のっぺりした「南蛮づくり」になっている。この見えないところは手を抜く功利性?が好感度アップ。

・弘前市立博物館

・弘前市立観光館(山車) ・・・ 17世紀、津軽藩の主催ではじまった。当時は隔年開催で、九町の山車があったというが、現在はそのうち七つが残り、展示されている。なお、八月には弘前も「ねぷた」が行われ、現在では山車は無いとのこと。
真ん中の白い袋の手前に座っているのが布袋さん。左側で福禄寿と黒いやつが相撲をとっている。このほか、紅葉狩(戸隠の鬼女退治)とか黄石公とか大根とか道成寺とかの山車があってそれぞれおもしろい。

・弘前市立郷土文学館(石坂洋次郎記念室)

二階の石坂洋次郎記念室。一階では今月は福士幸次郎の特集をしていた。ほかに葛西善蔵など。

・旧弘前市図書館

・武家屋敷(笹森家、伊東家、梅田家、岩田家)

・最勝寺(五重塔)

7月25日(日)

○函館市内

・五稜郭タワー、箱館奉行所

函館駅頭のイカ郵便局長。

8月14日(日)〜15日(月)

○浜離宮

○鋸山(乾坤山日本寺)

8月28日(日)(愛知県一宮市)

○一宮博物館
重要な農具の数々。「島畑」のジオラマなどもあった。

○尾張一宮・真清田神社
20年前に来たときはこのあたりは濛濛と砂塵舞い、左右に(右端に見えるような)長屋づくりの衣料品店がずらりと並んでいたはずだが・・・。まわりは舗装され、今では数軒が残るのみであった。
9月3日(土)
法事のついでに、谷中の朝倉彫塑館へ。大分生まれ、明治〜昭和に活躍した朝倉文夫のアトリエ・住居を保存しているもの。建物としてたいへんオモシロかった。
屋上より東京の空を眺める。真ん中へんに胸像が立っています。
9月21日(金)

○神戸太山寺・山門

10月2日(日)

○松島
仁王島。五大堂。
10月9日(日)

○宮崎平和台公園 ・・・名高い八紘一宇の塔である。雨中であるが、四方に荒魂(武人像)・和魂(工人像)・奇魂(漁民像)・幸魂(農民像)あるのを確認。正面で拍手すると反響がするのも確認。

紀元2600年にコレを作ろうとした心性は大したものである。

○高千穂方面

・青雲橋
日の影町にあり。カッコいいでしょう。

・天安河原(あまのやすのかわら)・・・天岩戸神社の奥、渓谷を遡ったところにあり。感動的。しかしほかの観光客のひとたちがいなかったら神威びしびしと強く、恐怖で白髪化したカモ。
こんなすごい渓流をたどる。天岩戸に大神がお隠れになったとき、思兼命ら八百万の神々が集まって謀議なされたところと聴く。いろんなひとがケルンを積んでいるので、一人で行ったらコワいこと必至。
高千穂地方。もう稲刈りされて、「掛け稲」されている田んぼたたくさんあった。条件がいいと雲海に沈むという。
帰りに食ったこんにゃくから揚げ。味は・・・むう。

10月10日(月)

○道の家・南郷・・・裏手の森をついに制覇。
○サンメッセ日南・・・モアイ像で有名なのではじめて行ってみた。一人700円であった。西田天香の香灯会がやっているんだとわかった。

日本になじんでいる?モアイ像。彼らが帰りたいかどうか知らんがおれは帰りたくないのだ、東京には。

10月23日(日)

備後・竹原へ(詳細はいずれ)

○歴史民俗資料館

○西芳寺

ここまで登るのそこそこ疲れた。ここから見下ろすと、「時をかける少女」などのロケ地、竹原の街並みがよく見える。

○頼家

○森川家

11月6日(日)

○大谷観音 ・・・ 国指定史跡である。平安前期の摩崖仏(千手観音)あり。堂内は撮影禁止。大正天皇、今上、常陸宮様が行幸あそばされている。十数年前、一昨年死んだYAと来たのであったなあ。
なお堂下から縄文早期以来の人骨、土器等も出土している。
裏手の弁財天堂。この奥は江戸期は輪王寺宮の御留め山で、大正天皇お気に入りの行幸地であられたよし。御闊達の御性格にそぐわれたのであろう。
○大谷資料館 ・・・ 大谷石の掘削事業の資料館。地下の掘削現場も見学できるが、この元掘削現場の洞窟が、いろんな撮影に使われて有名。

十数年前はまだこんなにはキレイではなかったが・・・。写真見てみるといくつかオーブが映ってますね。

○多気不動尊

ここから石段を昇る。

11月11日(金)

○高田本山専修寺

○同寺内町

11月19日(土)〜20日(日)

金曜日の深夜バスで出て、酒田へ。日本海沿岸をふらふらした。

○酒田市立資料館 ・・・ 昭和51年の酒田大火の企画展やってました。わずか30年ほど前のことだったんですね。復興のために岸洋子さんが来て歌ったんだよ。

○土門拳記念館(酒田市立写真展示館) ・・・ 東北の仏像とか。

○念珠の関跡 ・・・ 近世念珠の関跡を発見。古代鼠の関跡は発見できず。

昭和三年内務省指定・国指定史蹟である。

○笹川崩れ ・・・ 遊覧船が20日まで、というので乗せてもらった。

逃亡に疲れ果てた義経主従もこれを見てニタリとした、というニタリ岩。にやにやはする。

恐竜岩。ここからはそうでもないが、ほんとにそう見える角度もあるんです。

○飛島 ・・・ なんとか飛島にわたりたかったのだが、二日とも酒田から出るには出るが午後の天候が悪いので荷揚げだけして帰ってくる、ということになって、20日とにかく行ってみた。在島時間10分程度。次に来れるのは何時になるであろうか。

遠賀美(おがみ)神社。船着き場の真後ろにあるのでここまでは行けた。が、拝みさえできずに船に戻る。

○酒田港海洋資料センター ・・・ 無料の博物館。港湾事務所等がやっている。ここで「酒田」は「サガタ=小潟」ということを知った。ほかに大正の「河海分離」とか。漁法のジオラマ、艦船模型など、見せるための古いタイプの工夫がいろいろしてあり、先人たちの知恵があふれる博物館であった。

○鐙屋 ・・・ 井原西鶴「世間胸算用」にも出てくる米問屋。鐙屋(姓は鐙谷)は酒田三十六人衆筆頭という。

「おしん」さまの撮影舞台ともなりしよし。宿泊の諸国の手代たちに食わせるタイの焼き物とかを作っている。観ているとハラが減ってきた。籠みたいな「いずみ」もあった。

○本間家本邸 ・・・ すばらしかったです。

11月23日(水)

勤労に感謝しつつ、寒い中埼玉県内の博物館を見学。

○狭山市立博物館 ・・・ 稲荷山公園内にあり。

開館25周年でシンボル的展示物のアケボノゾウ展を開催中。アケボノゾウ骨格標本。昭和期の祝いの際の食膳模型。このとき腹が減っていて、とにかく美味そうであった。炭水化物多い。狭山〜入間〜八王子方面まで走っていた馬車鉄道(1901〜15ごろ)。もちろん唐箕もあった。

○入間市博物館(アリット) ・・・ ここは写真撮るといけないので撮りませんでしたが、企画展示は部落ごとの民俗等展示されていて力入っていた。こども科学室は楽しかった。お茶関係の展示などもありオモシロかった。触れる展示はほとんど無いが。

入間市駅からバスで30分ぐらいかかった。窓口のすぐ横にあった民俗品。これは撮影OKと思われた。唐箕は製作所等不分明。

11月26日(土)〜27日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

桐生から渡良瀬川を遡上。ひもかわカレーうどん、ソースかつ丼も食えてシアワセであった。・・・平日がまた来るのがツラいが。

○桐生文化資料館 ・・・ 白滝姫生き人形。桐生で作られたパチンコ台。ボート展示など。生き人形美しい。視ていると愛してしまいそうでたまらんぞ。戦後パチンコ史に残る名作三種など。なお桐生は競艇の北限なるよし。ここより北は氷結するので。

○大川美術館 ・・・ アメリカ絵画はいいなあ。

○小平鍾乳洞 ・・・ 明治初年に発見されてしばらく入場料を取っていたらしいが、その後土砂崩れで不明となり、昭和59年に古文書に基づき再発見された。あまり長くはない。

紅葉の中の入り口から入る。「金勢の間」。古文書によれば男根に見立てたらしい。なお昭和59年に明治大学地学部が入っているが、その中に謎の阪神帽のひとがいる。当時阪神帽をかぶって明治大学にいたひとがいたのか?オーパーツではないだろうか。

○足尾銅山 ・・・ 一度は来たかった足尾銅山に来た。

トロッコの乗せられて坑内へ。これは近代コーナー。ボタンを押すと人形がしゃべるが、ドリル使っているひとが「最近咳が出てなあ」と塵肺について予告しているのがブラック。昭和コーナー。昭和48年まで採鉱のよし。アルマイトの弁当箱が美味そうだった。「喫煙も行われた」と書いてあるのに灰皿は置いてなかった。

昭和18年〜20年には朝鮮半島や中国のひともいたんだそうだよ。

12月3日(土)・4日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

友人の墓参りに、と思いまして常陸太田へ。帰りに水戸市内を散策。

○常陸太田郷土資料館(梅津会館) ・・・ 10数年ぶりに訪問。ずいぶん中が変わっている。分館が立入禁止だそうで、展示物はやたら減った。太田から出て函館で豪商となった梅津福次郎氏の寄贈された旧市庁舎を改造して使っているので、梅津会館という。太田高女→太田二高の百年史をやっていた。もうすぐ合併で無くなるらしい。

晩は「元祖西山手打ちうどん」いづみやうどん食った。

○吉田古墳 ・・・ 水戸に戻って、水戸駅南口からしばらく歩いた住宅地にあり。現在は8メートル×3メートルぐらいの長方形の土盛ですが、もとは一辺30メートルの周溝があったと推定される。明治年間に学術調査されて石室に絵が見つかり、昭和3年「国指定史跡」になった。

史跡指定時は方墳とされていたそうですが、実は珍しい「多角墳」なんだそうです。

○茨城県立近代美術館 ・・・ 中村彝、横山大観など茨城出身作家のコレクションで名高いが、つくば大学総合造形科の歴代教官の作品などの企画展あり。オモシロかった。

風船で出来た「宇宙蟹」。かっこよくてシビレる。

○好文亭(偕楽園内) ・・・ 烈公・斉昭さまが作らせた三階建ての建物。一番上の「御三階さま」(「楽寿斎」)からの眺望はすばらしい。

右側が三階建て。三階内部。正面には千波湖が見える。

なお三階まで酒食の膳を運ばせるのはたいへんだというので、烈公御考案にて日本最初といわれる食膳用のエレベータが設けられている。エレベータの穴を上から覗いてみた。

○千波湖 ・・・ やたらたくさん白鳥やら黒鳥やらいました。近くの大塚湖で鳥インフルが発見されたので、ここもかなり危ういらしい。

日が暮れてまいりました。明日は平日か。今週はまたツラいんですよ・・・。

12月10日(土)〜11日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

群馬地方に古墳調査を敢行!

○太田天神山古墳 ・・・ 東日本最大の前方後円墳。5世紀前半。

太田の巨大古墳はこの時期のみ。天神山古墳の東200mほどのところにある女体山古墳。4世紀末のホタテ貝型古墳。ホタテ貝型としては全国第二位というすごさである。それにしても、天神山が「男体」でこちらが「女体」ということだが、どうしてもにょたいといわれるとニヤニヤしてしまうわれらだ。

このあと上州太田焼きそばのドロドロのを食って高崎へ。

○高崎城址

濠には寒いのにこんな光ものが浮かんでいた。こちらもライトアップ中。

○かみつけの里博物館 ・・・ 埴輪について最新知識を展示する。榛名山南麓の水系を支配した三つ寺T遺跡の支配者(車持氏と推定される)を葬ったとされる保渡田古墳群の中にある。

埴輪観に行こう。なお、榛名歴史資料館の展示物を臨時展示していてすごく勉強になった。

○保渡田古墳群 ・・・ 5世紀後半から、50年程度の間に作られた巨大前方後円墳群。車持氏と推定される。なお「車」が「群馬」となったのである。榛名山のバクハツによって車持氏は移動していったらしい。

最初に作られた二子山古墳。前方部から後円部を見るとその先には赤城山。

多くのハニワが発見され、ハニワ学のメッカ的存在となった八幡塚古墳。葺石で復元されていて、石棺も観られる。南北方向になっていて、後円部の向こうには二つ岳。周溝外縁の儀礼ハニワ群。

最後(6世紀初頭)に造られた薬師塚古墳。西光寺の裏山になっており、薬師堂があるのは後円部。石棺も遺されている。西光寺も江戸時代からあっておもむきある石造物がいっぱいである。なお、この古墳も赤城山の方を向いている。

○土屋文明記念文学館 ・・・ 齋藤茂吉のあとのアララギ総帥。「万葉集私注」で名高い。ドナルド・キーン展もやってました。

○箕輪城 ・・・ 日本百名城、中世末期、武田信玄の再三の攻城を耐えた長野業正の居城として名高い。が、井伊直政が家康入府の際に高崎に移って廃城にするまで十年弱入っていたため、すでに「井伊直虎ゆかりの城」の旗が城中あちこちにはためいていた。

復原された馬出郭西虎口門。この城、郭の構成がわかってオモシロいのだが、長野氏全滅の地であり、特に稲荷郭のところとか、「これはマズイ」というぐらいコワいものがあって、肝試しに使ってはいけません。一晩いたら髪が真っ白になるぐらいの恐怖ではすまないであろう。

○総社古墳群 ・・・ 七世紀末〜八世紀の終末期古墳群。方墳である。上毛野氏とみられる。

蛇穴塚古墳。石室に入れるよ。石室は弁天様が祀られていたようである。

宝燈山古墳。石室に仏教寺院の影響の見られる最末期古墳として名高い。山頂部は総社藩主・秋元家(幕末の館林藩主)の歴代墓地となっている。

秋元家菩提寺の秋元山光巌寺山門。

なお、総社の歴史資料館は1601、わずかに一分の遅れを以て懇願にも関わらず入れてくれなかった。普通は入場者数稼ぎの面もあって快く入れてくれるのであるが、空っ風とともに人の心も乾ききっているのであろうか。この町は。

今日も暮れ行く古墳が丘。明日はまた平日だ・・・。

12月18日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東松山まで行きまして、古墳系散策

○野本将軍塚古墳 ・・・ 前方後円墳。墳長115m。13世紀の野本氏城館あとである利仁山無量寿寺に隣接。

墳形がかなり明確に遺っておる。

○勝呂神社古墳 ・・・ 古代東山道に隣接し、飛鳥時代の勝呂廃寺の側にあって、崇神朝の四道将軍の一人、タケヌナカワワケのミコトを葬ると伝えられる。円墳。このあたり中世・勝呂(すぐろ)氏・勝氏の本拠とのことである。なお、付近の坂戸市民俗資料館は土日休館タイプで入れなかった。

この木立の中の小丘が古墳で、その上に勝呂神社がある。現在は白山神社。

12月23日(祝) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日船が出なかったので、今朝は天皇陛下お誕生日の一般参賀に行ってまいりました。

そのあと、

○芝丸山古墳

後円部を見上げる。

○増上寺展示室 ・・・ 明治の陶工・宮川香山展を見に行く。三代目宮川香山は横浜大空襲で本人・家族・従業員・作業場全部燃えて無くなったので伝来品は無く、海外や宮家から売りに出されたものが収集されているよし。

その後、一般公開中の徳川家墓所を見学。

さあ、今晩は船出るかな?

12月24日(土) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八丈島に来ました。

○樫立 ・・・ 服部屋敷で手踊りと八丈太鼓見せてもらう。350円。客はおいら一人であった。

太鼓は二人ですが、総勢四人で演じてもらった。一人90円弱である。

○硫黄沼、唐滝

八丈島で一番でかい滝だそうである。

○裏見が滝

裏見が滝を裏から見た様子。

25日はまた10時間かけて寒い東京までかえってきた。

伊豆大島に沈みゆく夕日。今年の観光もこれが最後かな。

12月31日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○鳥羽市内散策

 

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