自由人は一週間一回ぐらいしか出勤できないぞ。
一日生きていたので疲れましたね。もう明日も出勤するのはムリではないかな。
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北魏のころ、光統律師と流支三蔵は何度議論を吹っ掛けてもダルマ大師に勝てませんでした。そして、ダルマ大師を慕う者は徐々に増えてきたものですから、二人は焦りまして、ついに
競起害心、数加毒薬。
競いて害心を起こし、しばしば毒薬を加う。
それぞれ争うようにダルマ大師をぶっ殺そうとのキモチを起こし、何度も毒薬を飲ませようとしたのでありました。
謀略はあんまりうまくいかなかったのですが、
至第六度、以化縁已畢、伝法得人、遂不復救之、端居而逝。
第六度に至り、化縁すでに畢(おわ)り、伝法の人を得るを以て、ついにまたこれを救わず、端居して逝けり。
六回目にチャレンジしたときには、(ダルマ大師の方が)ひとを徳化してみちびく予定もだいたい終わり、伝えるべきことは伝え終わったということで、もう毒殺されてもいいや、ということになっていて、きちんと座ったまま死んでしまった。
「うあーい、やりまちたあ」
時に、北魏が東西に分裂した直後、西魏の文帝の大統二年(536)十月五日だったそうで、その年、十二月二十八日、ダルマ大師は熊耳山に葬られ、そこには定林寺というお寺が建てられたのだそうです。
ところがその三年後―――
北魏国から何年か前に西域に遣わされていた宋雲という僧が、ようやく用務を終えて帰国する途中に、
遇祖于葱嶺。
祖に葱嶺(そうれい)に遇う。
元祖さま(←ここではダルマ大師のこと)と、パミール高原で突然出くわした。
「ダルマ大師さまではございませぬか」
そのとき、大師は
見手携隻履、翩翩独逝。
手に隻履を携え、翩翩として独逝せり。
手には履き物の片っ方だけをぶらさげ、飄々としてひとりどこかに行こうとしていた。
宋雲が、
師何往。
師、いずこに往く。
「大師さま、どちらにまいられますか」
と訊ねると、ダルマ大師は、はっきりと
西天去。
西天に去らんとす。
「西の方、天竺に行くつもりじゃ」
とお答えになったのだった。
宋雲が帰朝後、この話をすると、みな驚いて曰く、
「大師様はもう三年前に亡くなられたはず・・・」
そこで、門人ら申し合わせて定林寺のお墓に行き、
啓壙、唯空棺、一隻革履存焉。
壙を啓(ひら)くに、ただ空棺、一隻の革履の存するのみ。
墓穴を開いてみたところ、棺桶の中は空っぽで、ただ革靴が片一方だけ遺されていた。
のだそうでございます。
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「五燈会元」巻一より。
わーい、すごいなあ。こんな力があったら、おいらも○んだことにして「ちょっと天竺行ってくるわー」と言って職場から消えていけるのになあ。
なおこの伝説には、合理的な仏教側から早くに「そんなことあるかよ」と疑問が呈されており、
宋雲が所見かならずしも実なるべからず、宋雲いかでか祖師の去就をみん。
宋雲が見たところはちょっと本当のこととは思えない。宋雲がどうしてダルマ大師さまの行き先を知ることができたであろうか。(彼のレベルではそんなことはできなかったであろう)
と道元禅師もおっしゃっておられるのである。(「正法眼蔵」第三十八「葛藤」より)