雲のあるところには龍がいる・・・かも。
やっと週末。今日はシゴトバクハツで大被害でした。しかも日曜日からは・・・。
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ひとにはすごい能力があるひととそうでない人がいるものなのでございます。
龍嘘気成雲。雲固弗霊於龍也。
龍は気を嘘(は)けば雲を成す。雲はもとより龍より霊なるにあらざるなり。
龍が気を吐きますと、それが雲になる。だから雲は龍のコントロール下にあり、龍よりすごいものではない。
然龍乗是気、茫洋窮乎玄フ。薄日月、伏光景、感震電、神変化、水下土、汨陵谷。
しかるに、龍はこの気に乗じて、茫洋として玄フを窮む。日月に薄(せま)り、光景を伏(ふく)し、震電を感ぜしめ、変化を神にし、下土に水ふらせ、陵谷を汨(ひた)すなり。
けれども、龍はこの気(雲)に乗っかって、はるかに大空の涯まで窮め行くのである。太陽や月の近くに迫り、光と陰を覆い、いなびかりとかみなりを引き起こし、気候をよそう不可能にし、大地に水を降らせ、岡や谷を水浸しにするのである。
ああ。
雲亦霊怪矣哉。
雲もまた霊怪なるかな。
雲も、また不思議で奇妙なものではないか。
ただしですね、
雲龍之所能使為霊也。若龍之霊、則非雲之所能使為霊。
雲は龍のよく霊を為さしむる所なり。龍の霊なるがごときは、すなわち雲のよく霊を為さしむる所にはあらざるなり。
雲は、龍が力を吹き込んで不思議な力を与えているものなんです。龍の不思議な力は、雲が与えられている不思議な力の比ではない。
ところが、
然龍弗得雲、無以神其霊矣。失其所憑依、信不可歟。異哉其所憑依、乃其所自為也。
然るに龍は雲を得ざれば、以てその霊を神にすること無し。その憑依するところを失えば、信に不可なるか。異なるかな、その憑依するところ、すなわちその自ら為すところなり。
そうはいっても、龍は雲が無いと、その不思議な力を発揮することができないのである。よりかかっているところが無くなれば、確かにいろんなことができなくなるのだ。おかしなことではないか、そのよりかかっているところは、自分が力を与えたものだというのに。
易曰雲従龍。既曰龍、雲従之矣。
易に曰く、雲は龍に従う、と。既に龍と曰わば、雲これに従うなり。
「周易・文言伝」に「雲は龍に従(い、風は虎に従)う」という言葉がある。(雲があるところには龍があり、風があるところには虎がいるのであるから)龍を話題にするときには、雲も一緒にいるのが前提なのである。
雲を大事にしましょう。
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唐・韓愈「雑説」(「唐宋八家文」巻一所収)。韓愈の文章はオモシロいですね。論旨がジグザグして進んでいき、最後にすとんと落ちて、読者は得も言われぬ開放感を感じるのではないでしょうか(と思いますが、大して感じないかも)。
龍は君主、雲は補佐の臣のそれぞれメタファーらしいんですが、わたしどもの一族は別に力を吹き込んでもらって雲にしてもらう必要も能力も薄いんです。雲散霧消していくんです。シゴト面はもちろん人生のさまざまな場において。