永久に休みたいぜ。此岸のことは。
昨日は会社の休みが続いたので、調子よくなって出かけておりました。しかしもう明日は・・・。
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一昨日からの続きです。
ひとびとが美しいバスミータさまに近づくと、まずは
1 来詣我所、為其説法皆悉離欲、得無著境涯三昧。
我がところに来たり詣れば、それがために説法してみなことごとく欲を離れ、無著境涯三昧を得せしめん。
「そのひとのために教えて、欲望を離れ、「なにものにもとらわれない境地」を得させてあげるのですよ」
と、まずは「無著境涯三昧」を得ることができます。
さらに、
2 若有見我、得歓喜三昧。
もし我を見る有らば、歓喜三愛を得せしめん。
「わたしを見たひとには「喜びの境地」を得させてあげるのですよ」
3 若有衆生与我語者、得無礙妙音三昧。
もし衆生の我と語る者有らば、無礙妙音三昧を得せしめん。
「わたしと語るひとがいたら、そのひとには「妨げられることのない美しい音の境地」を得させてあげるのですよ」
4 若有衆生執我手者、得詣一切仏刹三昧。
もし衆生の我が手を執る者有らば、詣一切仏刹三昧を得せしめん。
「わたしの手を握るひとがいたら、そのひとには「あらゆる仏の国に行ける境地」を得させてあげるのですよ」
5 若有衆生共我宿者、得解脱光明三昧。
もし衆生の我とともに宿する者有らば、解脱光明三昧を得せしめん。
「わたしとひとばんいっしょに寝るひとがいたら、そのひとには「脱出の光の境地」を得させてあげるのですよ」
6 若有衆生目視我者、得寂静諸行三昧。
もし衆生の我を目視する者有らば、寂静諸行三昧を得せしめん。
「目視」は2の「見」より一生懸命細かいところまでじっくりみることです。
「わたしを見つめるひとがいたら、そのひとには「あらゆるものが静謐になる境地」を得させてあげるのですよ」
7 若有衆生見我頻申者、得壊散外道三昧。
もし衆生の我が頻申(ひんしん)見る者有らば、壊散外道三昧を得せしめん。
「頻申」とは「あくび」のことだそうです。
「わたしがあくびするのを見るひとがいたら、そのひとには「邪道がふっとぶ境地」を得させてあげるのですよ」
8 若有衆生観察我者、得一切仏境界光明三昧。
もし衆生の我を観察する者有らば、一切仏境界光明三昧を得せしめん。
「観察」は6の「目視」よりさらに一生懸命細かいところまでじとじとと見つめることです。
「わたしのからだをじろじろと見つめるひとがいたら、そのひとには「あらゆる仏の世界の光の境地」を得させてあげるのですよ」
9 若有衆生阿梨宜我者、得摂一切衆生三昧。
もし衆生の我に阿梨宜(ありぎ)する者有らば、摂一切衆生三昧を得せしめん。
「阿梨宜」(ありぎ)はチャイナでは意訳するのがはばかられたのでございましょうが、サンスクリットの「あーりんがな」の音訳だそうで、唐の法蔵の注釈によれば
抱持摩触。
抱持して摩触すなり。
抱きあげて愛撫することである。
とのこと。
「わたしを抱いてからだを愛撫するひとがいたら、そのひとには「あらゆるものたちを取り入れる境地」を得させてあげるのですよ」
10 若有衆生阿衆鞞我者、得諸功徳密蔵三昧。
もし衆生の我に阿衆鞞(あしゅへい)する者有らば、諸功徳密蔵三昧を得せしめん。
「阿衆鞞」(あしゅへい)も意訳するのがはばかられたのでしょうが、サンスクリットの「あーちゅんばな」の音訳だそうで、法蔵の注釈では「鳴口」。「口をちゅうと吸う」ということです。キッス。
「わたしのくちびるにキッスするひとがいたら、そのひとには「さまざまな力の秘密の蔵の境地」を得させてあげるのですよ」
「ええー!? そんないいことをしてもらえるのでちゅか!」
善財童子は驚きながら質問しました、
大聖、昔於何所種諸善根、修何等業得此法門。
大聖、むかし何れの所において諸善根を種(う)えて、何等の業を修めてこの法門を得しや。
「大いなる聖女さま、あなたはいったい、前世においてどんな場所でどんな善き根っこを植えて、どういう修行をなさってこのようなすばらしい法的な力を得られたのでちゅか?」
「おほほ、かわいい童子ちゃん、それはね・・・」
バスミータさまのお答えは、また次回。
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「華厳経」入法界品より。あと一回分です。お彼岸のうちになんとか終わりたいのですが。