平成27年11月5日(木)  目次へ  前回に戻る

はやく爭いや闘いやシゴトの無い世界が来ないかなあ。

やっと週末・・・かと思ったらまだ一日あった。ツラい。

今日は十年ぐらい前に辞めたひとを囲む会みたいなのがあって、古いひとたちですから言い争いもありました。50代〜70代が集まって、おいらのようなコドモの前で争うとは可笑しいことでありまちゅ。

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「太玄」「爭」首(1・3・3・1)の賛・次八に曰く、

狼盈口、矢在其後。

狼口を盈(み)たせば、矢はその後に在り。

オオカミが口をいっぱいにしているとき、その背後からは矢が迫っている。

宋・司馬穏公の注にいう、

狼性貪、但知務盈其口而不知矢在其後。如小人争利而不顧其害也。

狼は性貪、ただその口を盈たすを知るのみにして、矢のその後に在るを知らず。小人の利を争いてその害を顧みざるがごとし。

オオカミは本来的に「むさぼる」性質を持っており、その口を満たすことばかりに精神を集中し、矢がおのれの背後から迫っていることに気づかない。まるで、ちっぽけなやつらがわずかな利得を争って、お互いが傷つきあうことに知恵が回らないのと同じではないか。

賛・上九に曰く、

両虎相牙、知掣者全。

両虎あい牙せば、掣(ひ)くを知るもの全し。

二頭のトラが噛み付きあっている。引くことを知っている者の方が身を全うすることができよう。

唐・王涯の注にいう、

爭之極者、莫如虎闘而相牙、必有死傷之患。

爭の極なるものは虎の闘いてあい牙し、必ず死傷の患有るに如くなし。

「爭い」の究極(上九は「爭」首の最後の「賛」である)としては、虎が闘いあってお互いに噛み付きあい、どちらかが必ず死ぬか傷つく恐れがある状態以上のものはあるまい。

しかし、

若能懼於害、自掣而退、乃可以全物。

もしよく害に懼れ、自ら掣(ひ)きて退けば、すなわち以て物を全うすべし。

もし被害を恐れて自ら引き退くなれば、その身を全うすることができるだろう。

つまり、

不可以終争。故於争極而見自退之象。

以て終争すべからざるなり。故に争い極りて自退の象を見る。

最後まで争い続けてはいけないのだ。だから、「爭い」の究極のところで、「自ら退く」という姿が現れるのである。

所以能知自退之道者、以陽当昼故也。

よく自退の道を知る所以のものは、陽を以て昼に当つるが故なり。

「明るい陽の気」が昼間の象徴であることを見れば、「自ら退く」ことの重要性をよく理解することができるであろう。

傷つけあうのは「明るい陽気」の為すことではないからである。

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漢・楊雄「太玄」巻二より。

一応占いの書なのですが、司馬光が気づいたように、これは

明哲保身、順時待命。

明哲にして身を保ち、時に順(したが)いて命を待つ。

賢く自分の身を守り、時運に従順に、じっと天命の降るのを待つ。

という生き方を説く書なのです。ちなみにおいらもじっとしていますが、これは天命を待っているのではなくて目立たないようにしているだけなんです。何にもしたくないので。

 

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