長く生きていればこんなのも見れるかも知れないが・・・
もうダメだー!(特にシゴト面)
わしはいくつになってもコドモ以下、たとえ九十三歳まで生きたとて老成することも無いのだ。もうイヤである。
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孫思邈なる人は京兆(長安周辺)のひと、七歳にして学問をはじめたが、一日に数千語を暗記したので有名になり、当時北周の地方長官であった独孤信なるひとが面会して嘆じて曰く、
此聖童也。但恨其器大難為用也。
これ聖童なり。ただ恨むらくはその器、用を為すこと大いに難し。
「こいつはコドモ聖人じゃなあ! しかし残念ながらこいつの才能は実用に向いているようではなさそうじゃ」
と。
そのとおり、長じては孔孟より老荘の言を好み、また釈迦氏の教えも兼ね学ぶようになった。
北周の末には太白山に隠棲していたが、後に楊堅(後の隋の文帝)が宰相となったとき、国子祭酒(国立太学の学長)を以て招いた。
しかし思邈は病を理由に召しに応じず、
「楊宰相は賢者と聞くが、どうして招きに応じないのか」
と問う親しい者たちには、
過五十年当有聖人出。吾方助之、済人。
五十年を過ぎてまさに聖人の出づるあるべし。吾まさにこれを助け、人を済(すく)わん。
「五十年経つと本当の聖人が出現することになっています。わたしはそのひとを助けて、人民たちを救済しますから」
と言って自若たる態度であった。
さて、五十年後、唐の名君・太宗皇帝が即位すると、思邈はすでにかなりの老人の域に達していたが、都に出て皇帝に拝謁した。このとき帝は思邈が老人なのにあまりにも若く、まるで童子にさえ見えるのに驚き、
有道者、誠可尊重。
道を有する者は、まことに尊重すべし。
道を自分のものにしておられる方は、ほんとうに尊敬し重んじるべきである。
として、爵位を与えようとしたが受けず、代わりに朝廷の相談役として時に諮問を受けることになった。
その後、高宗皇帝の上元元年(674)に病を理由に帰郷し、以降、郷里にあってすぐれた青年たちと会話し、また著述に従事した。
病に絶望しているひとに教えて曰く、
吾聞善言天者、必質之於人、善言人者、亦本之於天。
吾聞く、善く天を言う者は必ずこれを人に質し、善く人を言う者はまたこれを天にもとづく、と。
わしはこう聞いている。「天の運りのことをよく語れる者は、必ず人の言行を見てこれを確認しているのだ。人間の運命のことをよく語れる者は、やはり天のめぐりを見てこれを確かめているのだ」と。
天には四季があり、五つの物質(五行)がめぐり、寒い季節暑い季節がたがいに訪れる。その運行が和らげば雨になり怒れば風、凝り固まれば霜や雪に、伸びきると虹になる。これらは天地の常態である。人にも四肢があり五臓があり、眠ったり醒めたり、息を吐き息を吸う。これは人の常態である。
時に日月食し彗星流れ、大地震え暴風荒れる。しかし聖人が出現して人民を教化すれば天地の乱れが収まるように、人の身体も良医が薬石鍼灸によって養い導けば癒えるのである―――。
と。
また、ひとに教えて曰く、
胆欲大而心欲小、智欲円而行欲方。
胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲し、智は円ならんことを欲し、行いは方ならんことを欲す、と。
大胆な一方で心配性でありたいものだ。思考は柔軟で、行動はまっすぐでありたいものだ。
と。
「どういうことですか?」
と訊ねた者に応えて言った。
詩曰、如臨深淵、如履薄氷、謂小心也。赳赳武夫、公侯干城、謂大胆也。不為利回、不為義疚、行之方也。見機而起、不俟終日、智之円也。
詩に曰く、「深き淵に臨むがごとく、薄氷を履むがごとし」とは「小心」の謂いなり。「赳赳たる武夫は公侯の干城なり」とは「大胆」の謂いなり。「利の為にせざれば回、義のためにせざれば疚し」とは「行いの方なる」なり。「機を見て起こり、終日を俟たず」とは「智の円なる」なり。
―――「詩経」に、
「(親の言いつけを守るには)深い淵に臨んだときや水面に張った薄い氷の上を歩くときのようにせよ」と書いてあるのが「小心でありたい」ということだ。
「たけだけしいもののふたちが、侯爵さまの盾や城(としてお守りしているから我が国は大丈夫だ)」と書いてあるのが「大胆でありたい」ということだ。
「自分の利益のためには行動をしない。社会正義のために行動しなければ心が痛む」と書いてあるのが「行は方でありたい」ということだ。
「きっかけがあれば行動を開始する。その日が暮れるのを待つなかれ」というのが「智は円でありたい」ということだ。
(「詩経」の各詩の解説はいずれやります。)
思邈は、自分では「開皇辛丑歳(581)に生まれたから、上元元年で
生至九十三歳矣。
生まれてより九十三歳に至れり。
生まれてから九十三歳になりましたぞ」
と称していたが、同郷のひとたちは
云数百歳人。
数百歳人なり、と云えり。
「いやいや、数百歳にはなっておられるぞ」と言っていた。
なにしろ、
話周斉間事歴歴如眼見、以此考之不啻百歳人矣。
周・斉の間のことを話すに、歴歴として眼に見るがごとく、ここを以てこれを考うるに、ただに百歳の人にはあらざるなり。
北周(557〜581)や南斉(479〜502)(注※)の時代のことを、はっきりと自分の目で見たことのように話していたので、そこから考えても、百年ぐらいしか生きていないひとのはずはない。
と思われたのである。
その年齢でも
猶視聴不衰、神彩甚茂。
なお視聴衰えず、神彩はなはだ茂なり。
なお視力も聴力も衰えることなく、風貌も精神もたいへん秀でていた。
可謂古之聡明博達不死者也。
いにしえの聡明にして博達、死せざる者なりと謂うべし。
古代にいたという、聡明で博識で、死ぬことのない人類だったのではないだろうか。
(注※)普通に考えれば、「周・斉の間」というときの「斉」は北斉550〜557のことであろうと思うのですが、それだと「数百歳」の根拠にならないのと、孫思邈が貞観年間に「南朝の宋・斉・梁・陳や北朝の斉の時代の詔勅について学者たちに伝授した」という記録もあることから、南斉のこととして訳してみました。
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「旧唐書」巻191「方伎伝」より「孫思邈」。孫思邈は「隠逸伝」や「神仙伝」でも通用するタイプですが、その著書に東洋医術の古典的名著「素書」などがあり、医学者として「方伎伝」(各種の技術者の伝記)の中に入っているのである。
孫思邈は永淳元年(682)に卒したと伝えられるので、本人の言うとおりだとして単純に計算すると満101歳であるが、死んだあと棺からいなくなった可能性があるらしいのでもっと生きたのカモ知れないと思う・・・が、どうでしょうか。