人世を楽しみたいものですな。ぶははは。ちなみにシゴトに行ったかどうかはナイショ。
本日は某所でしうまい弁当食った。これで三日続けて同弁当食った。同弁当が飽きない美味さであるのか、当方に食に飽きるということがないだけなのか。
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ふつうのひとは食に飽きるということがあります。たとえば、↓こんなふうに。
食飽払枕臥、 食飽きては枕を払いて臥し、
睡足起閑吟。 睡り足りては起ちて閑吟す。
飯食って腹いっぱいなので枕を払ってごろごろと横になり、
たっぷり寝たあとは起き上がって、鼻歌でもうたう。
浅酌一盃酒、 浅く酌む、一盃の酒、
緩弾数弄琴。 緩やかに弾ず、数弄の琴。
ちょっとだけ、と一杯の酒を飲み、
手すさびに数回、琴をかき鳴らしてみて止めた。
というのが今のわたしの生活である。こんな風であれば、
既可暢情性、 既に情性を暢(の)ばすべく、
亦足傲光陰。 また光陰に傲(おご)るに足る。
十分、精神をのんびりさせることができますし、
また、時間の過ぎるのも気にせずにしていられる。
誰知利名尽、 誰か知らん利名尽きて、
無復長安心。 また長安の心無きを。
別に誰にも知られなくてもいいのだが、わしは利益も名誉も要らなくて、
もう「都・長安に帰ってもっとエラくなりたい」という気持ちはありませんのじゃ。
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唐・白楽天「飽食」(たっぷり食った)。杭州刺史時代の詩だそうです。たっぷり食ってたっぷり眠れたらヒマを見つけてシゴトぐらいしてやってもいいか、という気にさえなるかも知れません。ところがなかなかそういう気にならないのは、まだまだ足りないからなのでしょう。
さて、一体何が人生の目的で、何が手段だったのか。賢者曰く、
・・・(古代のエピルスという国の)王は、その寵臣に対して、自分が行おうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話し終えたとき、寵臣は言った。
「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」
王は言った。
「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」
寵臣はたずねた。
「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」
英国・アダム=スミス「道徳感情論」第三部三章より(堂目卓生「アダム・スミス」中公新書2008に拠る)。