誰にも批判されることなく暴飲暴食したい。
更新してもどうせ回線がつながらないので気楽です。誰かに見られて「まちがっているのではないか」と批判されることがありませんからね。
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南宋の儒者で、陸象山門下において楊慈湖と双璧と称揚された袁n斎先生は、家に二階建ての書楼を作ったとき、これに「是楼」と名付けて、こんなことを言った。
直不高大爾。是亦楼也。
直にして高大ならざるのみ。これまた楼なり。
まっすぐであれば、高さや大きさは必要ない。それでも楼であることにかわりはないからだ。
そこで、「是楼」(「これは楼」)という名前をつけたのである。
考えてみれば、
山石花木衣服飲食貨財隷役、亦其不然。
山石・花木・衣服・飲食・貨財・隷役、またそれ然らずや。
山や石も、花や木も、衣や服も、飲み物・食べ物も、動産・財産も、家来や下人も、すべてまっすぐであれば、高さ・大きさ(・多さ)は必要がないのではないだろうか。
そして、
至於宦情亦薄、曰直不高顕爾。是亦仕也。
宦情のまた薄きに至るも、曰く「直にして高顕ならざるのみ」。これまた仕うるなり。
官庁で出世する気もあんまり無いわけで、これについては「まっすぐであれば地位の高さや称賛される名誉は関係ない」。それでも仕官して世のために働いていることにかわりはないからだ。
この考えを展開してみる。
凡身外之物、皆可以寡求而易足。
およそ身外の物、みな以て寡求すれば足り易かるべし。
だいたい自分の欲望の対象物については、すべて「多くを求めない」ようにすれば、「満足しやすい」ことになるであろう。
ただし―――
惟此身与天地並、広大高明。我固有之、朝夕磨礪、必欲追古人而与倶。
ただこの身は天地と並び、広大にして高明なり。我らこれを固有し、朝夕に磨礪して、必ず古人を追いてともにせんと欲するなり。
ニンゲンというものこそ、天・地と同等のもので、本来のその内面は広く大きく高らかで明るいはずなのである。われわれはそのようなものをもとから持っているのだ。そこで、朝も晩も自分を磨き研ぎ澄まして、必ずいにしえの聖人のような状態になれるよう追い求めよう、その方々と同等になろう、と努力しているわけである。
ところが、そこのところで手を抜いて、
若徒斉於凡庸、而曰是亦人爾、則吾所不敢也。
もしいたずらに凡庸に斉しとして、曰く「これもまた人なるのみ」とするは、吾があえてせざるところなり。
ニンゲンにはそんな差が無いので、普通のひとと同じ程度であればよくて、「それでもニンゲンであることにはかわりはない」と言い出すようなことだけは、わしはゆるさないところである。
・・・と説教になりまして、ぎろぎろと弟子たちを見回したのでございます。
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おいらには読者も先生もいないから楽チンです(屋漏にさえ恥じなければいいわけで)が、いるとぎろぎろされて批判されるかも知れないから大変だなあ。