どうせなら美味いもの食べるといいでワン。
月曜日。しごとツラい。誰か救済して。
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他力ではなく自力で大乗の救済を求める修行者(「菩薩」)は、毎日、鉢を持って乞食に出かけねばなりません。
鉢に食物を恵んでもらうのですが、そのとき誰も恵んでくれなくて、
若見空鉢、当願衆生、其心清浄、空無煩悩。
もし空鉢を見ば、まさに願うべし、衆生、その心清浄にして空にして煩悩無からむことを。
もし空っぽの鉢を目にしたら、(腹減った・・・とか思わずに)まさに次のように発願せねばならない。
―――すべての衆生が、その心をを清らかに、この鉢のように空っぽにして、煩悩なんか持たないようになりますように。
幸いに誰かが鉢いっぱいに食いものを恵んでくださったときは、
若見満鉢、当願衆生、具足成満、一切善法。
もし満鉢を見ば、まさに願うべし、衆生、一切善法を具足成満せんことを。
もしいっぱいになった鉢を目にしたら、(やった、腹いっぱい食える・・・とか思わずに)まさに次のように発願せねばならない。
―――すべての衆生が、あらゆる善いことを修得し、完成させて、その内面がこの鉢のように満杯になりますように。
さて、いただいた食べ物が美味かった場合、
得香美食、当願衆生、知節少欲、情無所著。
香美の食を得ば、まさに願うべし、衆生、節を知り欲を少なくし、情に著するところ無からむことを。
かおりよい美味な食いものをいただいた時は、(うまいものが食えてうれしい・・・と思わずに)まさに次のように発願せねばならない。
―――すべての衆生が、(こんな美味いものを食うような贅沢をせず)ガマンを知り欲望を減らし、情欲に執着することが無くなりますように。
不味かった場合は、
得不美食、当願衆生、具足成満、無願三昧。
不美の食を得ば、まさに願うべし、衆生、無願の三昧を具足成満せんことを。
くそまずい食いものをいただいてしまった時は、(うひゃあ、まずいよう・・・と思わずに)まさに次のように発願せねばならない。
―――すべての衆生が、「無願三昧」の境地を修得し、完成させて、こんな不味いものでも喜んで食べるようになりますように。
「無願三昧」とは、あらゆる物事には本質的な特定のすがたは無く、すべてが流転していくものであることを理解して、「願い求める心」を捨て去り、解脱の境地に至ること。
不味いもの食べると解脱の境地に入れるかも知れません。
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東晋・仏馱跋陀羅(ぶっだばだら)訳「華厳経」(「大方広仏華厳経」)第七・浄行品より。
この偈には「大小便するときは」こう発願しろ、や「歯磨きするときは」こう発願しろ、など、さまざまな行住坐臥の事象について、修行者が衆生のために願うべきことが次々と出てきて、なかなか生活実態がわかってオモシロいのですが、とにかく食い物のことが多いです。食い物のことが気にかかるんです。
食いもののことでない事項ではこんなのもある。
昏夜寝息、当願衆生、休息諸行、心浄無穢。
昏夜に寝息せば、まさに願うべし、衆生、諸行を休息して、心浄く穢(けが)れ無からんことを。
夜中に寝るときには、(うしゃしゃ、寝るよー・・・と思わずに)まさに次のように発願せねばならない。
―――すべての衆生が、もろもろの活動を休め、心きよらかにけがれ無くなれますように。
これは、寝る前でシアワセな時ですから出来るかも知れない。
しかし、
晨朝覚悟、当願衆生、一切知覚、不捨十方。
晨朝(しんちょう)に覚悟せば、まさに願うべし、衆生、一切を知覚して十方を捨てざらんことを。
朝、目覚めたときには、(起きるのイヤ・・・とか思わずに)まさに次のように発願せねばならない。
―――すべての衆生があらゆることを正しく知り、十方向(の世界中の衆生)を見向きもしない、ということが無いように。
朝起きたときは絶望的なので、こんな気持ち持てる余裕なんかありません。