ウシならしようがないかブー。
頭痛がひどいんです。だが今日は休日だから張り切って、「春秋」を読んでみましょおー。
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魯の成公の七年(前584)
春王正月、鼷鼠食郊牛角、改卜牛。
春、王の正月、鼷鼠(けいそ)郊牛の角を食らい、牛を改卜す。
「鼷鼠」(けいそ)とは「イタチ」だろうといいます。「郊牛」というのは、魯の都城の外で行われる夏の祭りである「郊祭」のイケニエに予定されている神聖なウシのこと。
新春、周王の暦の正月、イタチが郊祭の犠牲用の牛の角をかじった。(縁起が悪いので)占って、別の牛を選び直した。
という記事がございます。
ところが、郊祭の前に、
鼷鼠又食其角、乃免牛。
鼷鼠、またその角を食らい、すなわち牛を免ず。
イタチがまた改めて選ばれた牛の角をかじったので、この年のイケニエには牛は用いないことにした。
古代の祭りでイケニエにされたものは、神霊に捧げたあとみんなで分けて食べるのが習いでしたから、この年は牛肉は食べられなかったのである。
角をかじられたのは、
祭天不慎。
天を祭るに慎まざるなり。
(郊祭という)天を祭る重要な行事に当たってこのような失態が起こったのは、慎重でなかったのである。(漢・京房)
皆養牲不謹也。
みな牲を養うに謹まざるなり。
二回もこんなことになるとは、重ね重ね、大切な犠牲を飼うのに謹しまなかったのである。(漢・董仲舒)
と、漢の大学者たちがお怒りになられております。
ところがそのほぼ九十年後の定公十五年(前495)、同じような事件が起こりました。
鼷鼠食郊牛、牛死。改卜牛。
鼷鼠、郊牛を食らい、牛死す。牛を改卜す。
イタチが郊祭用の牛をかじってしまい、牛が死んだ。そこで占って別の牛を選び直した。
今回は「角」に限定されていません。「公羊伝」によれば、
曷為不言其所食。漫也。
なんすれぞその食らうところを言わざる。漫なればなり。
どうして、どこをかじったのか明らかに言わないのか。それは限定できないからである。
注にいう、
漫者、徧食其身。
漫なるものはその身を徧食するなり。
「限定できない」というのは、全部食われたからである。
なんと、全身を食われたのです。みんなで食えなかったのは大いに残念ですが、イタチに全部食わせてしまうとは! 飼育係のやつらはどうしていたのか。「穀梁伝」に曰く、
不敬莫大焉。
敬しまざること莫大なり。
警戒していなかったことが、これ以上ないレベルである。
と。怪しからんことです。
飼育係はさすがに解雇された(物理的に「クビを斬られた」かも知れません)と思うのですが、翌、哀公元年(前494)、またまた
鼷鼠食郊牛、改卜牛。夏、四月、郊。
鼷鼠、郊牛を食らい、牛を改卜す。夏四月、郊す。
イタチが郊祭用の牛を食ったので、占って別の牛を選び直した。夏四月、郊の祭りを(無事)行った。
のであった。
このときは牛の死が記されていません。これは、「穀梁伝」によれば、
鼷鼠食郊牛角、改卜牛。志不敬也。
鼷鼠の郊牛の角を食らいて、牛を改卜せり。志敬しまざるなり。
イタチが郊祭用の牛の角をかじったので、占って別の牛を選び直したのである。これは警戒心が緩んでいたためだ。
ということなので、「角」だけだったから、のようですが、「角」だけで気づいたので、「莫大」(これ以上ないレベル)というほどには批判されていないわけなんですね。
・・・・・・以上の記述から、民国・楊樹達の「春秋大義述」(「「春秋」の重大な思想を明らかにする」)によれば、
鼷鼠食郊牛、譏。
「鼷鼠、郊牛を食らう」とは譏(そし)るなり。
「イタチが郊祭用の牛を食った」と書いてあったら、それは(当時の為政者を)批判しているのである。
ということがわかるのである。
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だからどうしたのだ、と言われると困るのですが、こういうのオモシロいですよね?ね?ね?
ちなみに楊樹達は日本留学も経験した歴史学者ですが、「春秋大義述」の書は抗日戦真っ最中の民国三十年(1941)に書かれ三十三年(1944)に出版されております。
倭奴狂狡、陵我中華五十年於此矣。
倭奴狂狡、我が中華を陵することここに五十年なり。
倭のやつらはキ○ガイでかつずるがしこく、我が中華に攻め込んで来て、もう五十年になるのである。(←日清戦争から数えている)
という問題意識のもと、「復讐」「攘夷」から書きはじめられたものだそうで、今日引用したところはそうでもありませんが、チャイナ人でありながら異狄に仕えた者を激しく譏るなど、あちこちに熱い思いがほとばしっておられます。