(こんなふうになっていなければいいのだが・・・)
聖バリントンデイ?だか何だかが済んで、沈んでるやつとか勘違いしているやつとかいるのでしょう。わははは。なお、女性はごくろうさまでした。
人生の勝者であり、あたたかで笑い声の絶えない円満な家庭を築きあげているわたしには、むかしからそういう悩み事はまったく関係ないのですが、「そんなことで悩んでいるのは辺境地帯の男女だけじゃよ」ということをお教えするために、↓をご紹介しておきます。
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王自中、字・道父は温州の生まれ、南宋・淳熙年間の進士、その上奏はつねに切実なること甚だしく、ついに権貴の忌むところとなって辞職し、たちまち郷里に戻ったというひとである。
そのひとの作った「山歌」を読みます。
「山歌」というのは本来、辺境の人民(特に少数民族を含む)たちの土着の歌をいうが、「民謡」と訳すと我が国の「民謡」はそのほとんどが(江戸期以来)観光用の商業民謡なのでかなり誤解されてしまいますので「田舎うた」ぐらいにしておきましょうか。素朴で直情的なので宋代ごろから、知識人たちの興味を引くようになり、採取されたり自作されるようになりました。
○王道父「いなかうた」
一
生来不識大門辺、 生来識らず大門の辺、
一片丹心石様堅。 一片の丹心、石様に堅し。
聞道阿郎難得婦、 聞くならく、阿郎婦を得難しと。
無媒争得到郎前。 媒無ければ争(いかで)か郎前に到るを得ん。
生まれてこのかた都会お屋敷の大きなご門なんてみたこたぁない、
けれど小さくて、石のように堅い純情を持ち続けてきたんよね。
聞いちゃったわよ、あのひと、おヨメの為り手が無くて困っているってさ、
誰か間に立ってくれるひとがいたら―――あのひとのところに行きたいんよね。
二
種田不収一年事、 田に種(う)うるも収めざるは一年のこと、
取婦不着一生貧。 婦を取るも着せざるは一生の貧。
風吹白日漫山去、 風は吹き、白日は漫(そぞ)ろに山去し、
老却郎時懊殺人。 郎時を老却して人を懊殺す。
植えた田が実らずに収穫が無くても来年は取り返せるが、
女房もらっても食わせていけねえ、一生貧乏なおいらには。
風はそよそよ、今日もお日様はゆっくりと山に沈んでいくんよ。
毎日毎日、おいらはどんどんおやじになっていく―――焦りまくって死んじゃいそう。
ははは。王道父は切実な上奏ばかりしていて、就活や婚活をマニュアルどおりこなさないからそんなことになるんだよ。Hくんもだよ。
さて、これを読んで王道父の先輩、南宋四大詩人の一人である誠斎先生・楊萬里が「和王道父山歌」(王道父の「山歌」に和す)を作っております。
○楊誠斎「王道父のつくった「いなかうた」にインスパイヤーされて」
一
東家娘子立花辺、 東家の娘子、花辺に立ちて、
長笑花枝脆不堅。 花枝の脆くして堅からざるを長笑す。
却被花枝笑娘子、 却って花枝に娘子笑わる、
嫁期已是磋春前。 嫁期すでにこれ春前に磋(おく)る。
東隣のおじょうさん、花のあたりに立ちながら、
「花の枝はやわらかくてこんなに折りやすい、あたしはお堅いから折られやしないけど」
と花をケイベツしたけれど、ほんとは花に嘲笑されているんだよ、
「あんたこそおヨメにいくのによい時期は、もう過ぎてしまったよ」と。
二
阿婆辛苦住西隣、 阿婆は辛苦して西隣に住まう、
豈愛無家更願貧。 あに家無きを愛さんも、さらに貧を願わんや。
秋月春風担閣了、 秋月・春風に担閣し了して、
白頭始嫁不羞人。 白頭始めて嫁するもひとに羞じず。
西隣ではおばさんがさびしい生活をしているぞ、
彼女だってひとりものでいたいと思っているわけではないのだが、貧しい家に嫁いで苦労するのをイヤがったのだ。
けれど秋の月をながめ春の風に吹かれているうちに、なんと人生を誤まってしまったことか、
白髪頭になってからでもおヨメに行くのはおそくはないさ。
「担閣」は宋代俗語で「誤ってむなしく過ごす」の意。
楊萬里はあたたかで円満な家庭を持っていたからか、上から目線な感じですね。
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みなさんもわたしのように豊かな人生が送れるように、がんばってください。わははは。