平成26年9月19日(金)  目次へ  前回に戻る

←週末は心のどか。なのだが・・・

やっと週末。だがシゴトの先のこと考えると絶望的である。この先どうするんでしょうね。

どうするのだといってもどうしようもないので絶望的である。

絶望的でどうしようもないので、今夜は「春秋」三伝(「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」)でも読み比べてみる。

・・・・・・・・・・・・・

昭公十九年(前523)のこと。

夏五月戊辰、許世子止弑其君買。

夏五月戊辰、許の世子・止(し)、その君・買(ばい)を弑す。

夏五月のつちのえ・たつの日、許の国の跡継ぎである姜止(きょうし)が、その父であり君主である姜買(きょうばい)をお殺し申し上げた。

「弑」は目下の者が目上の者をコロすことなので、とりあえず「お殺し申し上げる」と訳した。

「春秋」では国の跡継ぎが君主を殺した、という記事が三か所あるのですが、残りの二つはほんとに殺したのですが、これは殺す気はなかった例とされています。

ここまでが「経」の本文。いったいどういう事件だったのであろうか。

「左氏伝」によりますと―――

夏、許悼公瘧。五月戊辰、飲大子止之薬、卒。大子奔晋。

夏、許の悼公、瘧す。五月戊辰、大子止の薬を飲みて卒す。大子晋に奔(はし)る。

夏、許の悼公・姜買がおこりの病を病んだ。五月つちのえ・たつの日(五日であると考証されています)、嫡男の姜止が進めた薬を飲んだところ、死んだ。

「うひゃあ、これはまずいです」

と、姜止は晋の国に亡命した。

これは事故死に近い。しかし、

書曰、弑其君。君子曰、尽心力以事君、舎薬物可也。

書して曰く、「その君を弑す」と。君子曰く、「心力を尽くして以て君に事うるには、薬物を舎(お)くも可なり」と。

「春秋」を書いた史官は、「その君主をお殺し申し上げた」と書いた。その趣旨は、「心身の力を尽くして君主におつかえするのに、(医師でもない嫡男は)薬物など進めなくてもよかったのだ」ということである。

余計なことをしておやじを死なせてしまったので、「お殺し申し上げた」と書いたのだ、というのである。

この問題は「公羊伝」によりますと―――

「公羊伝」は同じ年の冬に許悼公の葬式が行われたことを挙げた上で、次のように言っておられます。

賊未討、何以書葬。不成於弑也。曷為不成於弑、止進薬而薬殺也。

賊いまだ討たれざるに、何を以て「葬」と書するか。弑において成らざるなり。なんぞ弑において成らざると為すか。止の薬を進め、薬殺せばなり。

(「春秋」の時代は通常、君主が殺されたときは、その犯人を罰してから葬儀を行うはずである。)それなのにいまだ犯人が罰されていないのに「葬むった」と書かれているのはなぜか。

「お殺し申し上げる」行為が完遂されなかったからである。

どうして「お殺し申し上げる」行為が完遂されなかった、とするのか。(悼公は死んだではないか。)

事実関係として、姜止はクスリをお進めしただけであり、悼公を直接殺したのはクスリだからである

しかし、逆に止が薬を進め、薬が殺したのであるのに、なぜ「弑す」と書いたのか。

子としての道を尽くさなかったことを批判したのである。いにしえ、楽正子春はおやじの病気の際、飯を一杯多めに差し上げたら少し治った。そこで飯を一杯減らして差し上げたらまた少し治った。次に衣を一枚増やしてさしあげたら少し治った。そこで今度は衣を一枚減らしたら、さらに治った。ところが、姜止はクスリを進めたのである。そのクスリが殺してしまったのである。そこで徳のある批評家は、「弑す」という言葉を加えたのである。

またいう。

「弑す」とあるのは、

是君子之聴止也。

これ君子の止を聴(さば)くなり。

批評家が姜止をとがめたのである。

ここの「聴」は「聴獄」という熟語で使われている意味で、「よく聴いて裁く」意。

一方、「葬る」としてあるのは、

是君子之赦止也。赦止者、免止之罪辞也。

これ君子の止を赦すなり。止を赦すとは、止の罪を免れしむるの辞なり。

批評家は姜止を赦(ゆる)したのである。「止を赦す」がわからない? 「止を赦す」とは、姜止の罪を免罪にしたという意味の言葉なんじゃ。

事実関係は「左氏伝」と同じですが、理屈がいろいろあるようです。中でも、薬が殺したのだから姜止が殺したのではない、という理屈は理屈っぽくて何だか微笑ましいですね。

「穀梁伝」によると―――

日弑、正卒也。正卒、則止不弑也。不弑而曰弑、責止也。

日にして弑するは正卒なり。正卒なれば、止は弑さざるなり。弑さずして弑すと曰うは、止を責むるなり。

(つちのえ・たつと)日付を書いた上で「お殺し申し上げた」と書いてあるのは、まともな亡くなり方をした、ということである。まともな亡くなり方である以上、姜止が「お殺し申し上げた」わけではない。「お殺し申し上げてない」のに「お殺し申し上げた」としたのは、姜止を批判したのである。

姜止を批判した理由はなんであるか。

止曰、我与夫弑者。不立乎其位、以与其弟虺。哭泣、歠飦粥、噎不容粒、未踰年而死。故君子即止自責而責之也。

止曰く、「我かの弑者に与れり」と。その位に立たず、以てその弟・虺(き)に与う。哭泣し、飦粥(せんしゅく)を歠(すす)り、噎(むせ)びて粒を容れず、いまだ年を踰えずして死す。故に君子は止の自責するに即(つ)きて、これを責むるなり。

姜止はこのとき、「わたしはおやじどのを死に至らしめたようなものだ」と言って、嫡男であるのに後を継がず、弟の虺に跡目を譲った。そして声をあげて泣きじゃくり、(悲しみが過ぎて)おかゆをすするのが精いっぱいで、粒のご飯はむせんで食べられなかった。ためにどんどん衰弱し、年を越せずに死んでしまったのである。批評家は、姜止が自分を責めるのが度を過ぎた、という点に着目して、彼を批判したのである。

まともな死に方なので「弑」ではないが、(クスリを進めたことではなく)自分を過度に責めて死んでしまったので「弑」と書かれたのだ、ということである。

さらに「穀梁伝」には続けて、有名なテーゼが出てまいります。

子既生、不免乎水火、母之罪也。羈貫成童、不就師傅、父之罪也。就師学問、無方、心志不通、身之罪也。心志既通、而名誉不聞、友之罪也。名誉既聞、有司不挙、有司之罪也。有司挙之、王者不用、王者之過也。許世子不知嘗薬、累及許君也。

子既に生じて水火に免れざるは、母の罪なり。

羈貫して童と成るも師傅(しふ)に就かざるは、父の罪なり。

師に就きて学び問うも方無く、心志通ぜざるは、身の罪なり。

心志既に通ずるも、しかるに名誉の聞こえざるは、友の罪なり。

名誉既に通ずるも有司挙げざるは、有司の罪なり。

有司これを挙げるも王者用いざるは、王者の過ちなり。

許の世子、薬を嘗むるを知らざるは、累、許君にも及ぶなり。

 生まれた子どもが火事や水難で死んだなら、保護者である母の責任である。

 その子どもが羈貫(きかん)する年になっても、先生につけてやらないのは、父の責任である。

「羈貫」(きかん)は、八歳以上の童子の髪の結い方で、いわゆる総角(あげまき)のこと。

 先生について勉強したのに、どうしていいかわからず、目指すところがはっきりしないのは自分の責任である。

 目指すところがはっきりしているのに、なかなか評判が立たないなら、それは同輩たちの責任である。

 評判が立っているのに、大臣が推挙しないなら、大臣の責任である。

 大臣が推挙しているのに王さまが任用しないなら、それは王さまが間違っているのである。

 ということは、許の国の跡継ぎ息子・姜止が、おやじに薬を進める前に毒見をしようと考えつかなかったのは(どこかに教育上のミスがあったのであって)、その責任の一端はおやじの悼公にもあるのである。

おやじには厳しいが、自分の「自己責任」なのは「目指すところがはっきりしていない」ときだけだそうです。だいたい責任免れられそう。

・・・・・・・・・・・・・・

というように、「春秋」三伝を読むといろいろオモシロかった。オモシロくて楽しくなった。よし、いざ生きめやも・・・日曜日の夜までは。

 

表紙へ  次へ