平成26年8月16日(土)  目次へ  前回に戻る

 

お盆も終わりました。みなさん、ちゃんと御先祖さまのお墓詣りに行きましたかー。我が国は「仏教の国」ではなくて「アニミズムの国」ですから、行かないといけないよー。(ちなみに肝冷斎は未了。(T_T)

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宋の時代のことである。

汾陽の無徳禅師が、ある晩の講義の際、参禅の何十人という僧侶たちの前でこう言うた。

夜来夢、亡父母覓酒肉紙銭。不免徇俗、置以祀之。

夜来夢みるに、亡父母、酒肉・紙銭を覓(もと)む。俗に徇ずるを免れず、置いて以てこれを祀らん。

この間、夜中に夢を見た。死んだおやじとおふくろが出てきて、

「(世間のひとがするように)酒と肉料理と(道教徒の使うあの世の貨幣である)紙銭をわれらの霊前に捧げてくれよ」

と求められた。

世間のやり方にしたがうしかあるまいから、酒・肉料理、紙銭を用いて両親を祭ろうと思うのじゃ。

そして禅師は寺内で両親を祭る行事を行い、

酌酒行肉、化紙銭訖、令集知事頭首、散其余盤。

酒を酌み肉を行(や)り、紙銭を化し訖(おわ)りて、知事頭首を集めしめ、その余盤を散ず。

霊前に酒を酌み、肉を料理し、紙銭を焼いてあの世に届け、それから僧たちの中の主だった者たちを集めて、霊前から下げたお盆(「盤」)の料理をともに食らおうと誘った。

「酒と肉、ですと?」

「それに道教徒の使用する紙銭?」

知事輩却之、無徳独坐筵中、飲啖自若。

知事輩これを却(しりぞ)くるも、無徳独り筵中に坐して飲啖すること自若たり。

主だった僧たちはこれを突き返したが、無徳禅師はひとり座布団に座ったまま、気にもせずに酒を飲み、肉を啖らっていた。

これは大問題となった。

衆僧数曰、酒肉僧、豈堪為師法耶。腰包尽去。

衆僧、数えて曰く、「酒肉僧、あに師法と為すにたえんや」と。腰包してことごとく去れり。

僧侶たちはこのことを批判して

「酒を飲に肉を食らう破戒僧を、仏法を学ぶ師匠とすることがどうしてできようか」

と荷物を担いでみんな逃げ出してしまったのである。

のこったのは六七人だけであった。

無徳翌日上堂、云、許多閑神野鬼、秖消一盤酒肉、両陌紙銭、断送去了也。

無徳、翌日上堂し、云う、「許多の閑神・野鬼、ただ一盤の酒肉と両陌の紙銭を消(もち)いて、断送し去り了(おわ)んぬ」と。

無徳禅師は、その翌日、また講義を開いた。六七人しかいなくなった弟子の前で言うに、

「昨日まで余計な精霊や野蛮な幽霊どもがたくさんいたが、ただ一盆の酒・肉料理と二百枚ほどの紙銭を使ってお祓いしただけで、結界の向こうまで追放することができたようじゃ」

と。

しかして呵々大笑し、下座。

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宋・大慧宗杲「宗門武庫」より。「宗門武庫」は「参禅のための「武器」になるようなお話を集めた蔵」の意。

「公案禅」でも「只管に打坐する」のでもない、大慧宗昊らが推し進めた「看話禅」(こういうお話・エピソードも参考にして悟りに至ろう、という手法)のフンイキが少しだけおわかりいただけますれば幸いにございます。

大慧宗杲は北宋の元祐四年(1089)、安徽・宣州の生まれ、十二歳で出家し各地の禅僧のもとを訪ね、後、圓悟克勤のもとで開悟、臨済宗の法灯を継ぎ、北宋末の開封で大いに尊敬され、徽宗皇帝から「国師」として紫衣を賜る。金軍が南下して北宋が滅亡すると南下し、蘇州、江西、福建などを転々としたが、南宋初期の君臣の崇敬を得て都・臨安の径山に所住して径山宗杲と呼ばれた。悲憤愛国の情強く、和平・売国派の秦檜らに反対の立場をとったため、紹興十一年(1141)には僧侶の地位を剥奪されて一兵士として湖南に流謫さる。紹興二十六年ようやく赦されて僧に戻り、また径山に戻るを許された。隆興元年(1163)示寂。孝宗皇帝より「大慧」の号を賜ったゆえ、世に大慧宗杲と称するのである。

ところで、最近、「稗史小説の類」の紹介よりも、陽明学やらなんやら思想的な話が増えてきているようにお感じになられませんか。それほど肝冷斎が追い込まれてきている、ということでなのでございますよ。ああ、あと何日もつのやら・・・。

 

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