クスリ切れたのでアタマ痛いのは治りましたが、今日もほとんど絶食。ハラ減った。(T_T)
ハラ減ってフラフラの上に、しごとその他ツラいので今日は「鵩鳥の賦」は一回休み。
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明の時代に流行った格言。
貴莫貴於為聖賢、 貴は聖賢たるより貴きはなく、
富莫富於蓄道徳、 富は道徳を蓄うるより富めるはなく、
貧莫貧於未聞道、 貧はいまだ道を聞かざるより貧しきはなく、
賤莫賤於不知恥。 賤は恥を知らざるより賤しきはなし。
士能弘道曰達士、 士のよく道を弘むを「達士」と曰い、
不安分曰窮、 分に安んぜざるを「窮」と曰い、
得志一時曰夭、 志を得ること一時なるを「夭」と曰い、
流芳百世曰寿。 百世に流芳するを「寿」と曰う。
いろいろ註釈をつけると長くなりますので、とりあえず訳してみた。
何が貴いというて(王公などであるよりも)聖人や賢者であるほど貴いことはない。
何が富かというと、道徳を心にたくわえている者がいちばん富んでいるのだ。
何が貧しいというて人として則るべき「道」を知らない、というほどに貧しいことはない。
何が賤しいというて恥を知るということを知らないほどに賤しいことはない。
「道」を広めていくひとのことを「達士」(よくできたひと)というのである。
自ら分に満足できないひとのことを「窮迫している」というのである。
ほんの一時期だけうまくいったひとのことを「若死にした」というのである。
百代までもよい評価を遺すひとのことを「長生きした」というのである。
三回ぐらい読んでみて、もし味わうところがあったら味わってください。
なお、この格言は世間で有名ですが、
世皆不知誰為之者、得其一者或不知其二也。
世、みな誰のこれを為す者なるかを知らず、その一を得る者もあるいはその二を知らざるなり。
世の中に、誰がこれをつくったのかを知っているひとは滅多にいない。たまに一人を知っている人はいても、二人目を知っているひとはいないのである。
ええー、そうだったんだ!二人合作だったとはなあ。
前四句乃陸梭山之言、後四句乃方蛟峯続之者。
前四句はすなわち陸梭山の言、後四句はすなわち方蛟峯のこれに続くる者なり。
前半は南宋前半期の名儒・陸梭山の言葉、後半は南宋末の鴻儒・方蛟峯がそれに続けたものである。
今併書之、故尤不知為誰耳。
今あわせてこれを書するが故に、尤も誰と為す知らざるのみ。
今(明代)では八句あわせて書くのが普通なので、ほんとうに誰の言葉かわからなくなってしまっているのだ。
「ふふん、わしは知っとるぞ」ということのようです。
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明・郎瑛「七修類稿」巻二十より。
こういうのは、三回読んでみて味わうところが無かったらもう味わうのはやめて結構です。読解力が無いとか、シナの古典の考え方は古いんだろうとか、といったことが原因ではなくて、そのコトバが当て嵌まる境位に「今このときに無い」というだけです(・・・だと思います)。
またお客さんにピッタリのいいのを紹介しますでな、うひうひ。