←これは蝶でちょ?
今日は暑かったです。あんまり暑いと朦朧としてきてマボロシを見たり聞いたりすることがありまっちゅよ。気をつけてね。
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晋の義熙年間(405〜418)、浙江・烏傷(うしょう)のひと葛輝夫が
在婦家宿。
婦の家に在りて宿す。
女房の実家に泊まっていた晩のことである。
真夜中近くに何かの気配に起き出して、ふと部屋の外をみると、
有両人把火至階前。
両人の、火を把りて階前に至る有り。
二人のひとが、ともしびを手にして建物のきざはしの下に立っていた。
―――こんな時間になぜ?
疑是凶人。
疑うらくはこれ凶人ならん。
―――おそらく強盗のたぐいであろう。
葛輝夫は腕に覚えのある男であったから、木刀を手にすると、そっときざはしのかたわらの物蔭まで移動した。
そこからは二人の姿がよく見える。彼らは微動だにせずにともしびを手にして立っており、おそらくほかの仲間が来るのを待っているのではないかと見えた。ただ、顔はかぶりものの陰になってよく見えない。
―――右のやつから続けざまに打擲すれば、とりあえず不意をつける。混乱している間にひとを呼び集めれば取り押さえることができよう。
輝夫は、心を決めると、ゆっくりと、ひとつ―――ふたつ―――みっつー――と呼吸を数えた。よっつー――
「あいやーーーー!」
と雄叫びをあげて木刀を振り上げて、物蔭が飛び出し、まず右の男の方に
往打之、欲下杖。
往きてこれを打ち、杖を下さんとす。
飛び寄って、木刀を振り下ろした―――。
手ごたえは・・・・・・・ない!
「え?」
そこにいた(あった)のは「人」ではなかったのだ。
悉変成胡蝶。
ことごとく変じて胡蝶となる。
それは、無数の蝶と蛾が集まって人のかたちを成していたものだったのだ。
ともしびを支えていたのも群れ集った蝶と蛾であった。
その無数の羽虫たちは、輝夫が木刀を打ちおろした途端、
繽紛飛散。
繽紛(ひんふん)として飛散す。
ばらばらになって飛び散じた。
同時に、もう一体の方もことごとく蝶と蛾に変じて飛び散じた。
「うわーーーーーッ」
有衝輝夫腋下、便倒地。
輝夫の腋下を衝(つ)く有りて、すなわち地に倒る。
輝夫の腋の下に何匹が激しく突き当たってきて、輝夫は地面に倒れた。
騒ぎを聴きつけて家人らが集まってきたときには、二本のたいまつが地面に落ち、手に木刀を握ったままの輝夫が倒れていて、そのまわりに何匹かの蝶が落ちて、はたはたとなお蠢いている―――という状態であったという。
輝夫は介抱されて気を取戻し、一部始終を語ったが、
少時死。
少時にして死せり。
しばらくして息絶えてしまった。
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コワいですねー。晋・干宝「捜神記」より(「太平廣記」巻473所収)。そこらへんにいる人も、ニンゲンだと思って話しかけたりすると蝶や蛾のかたまりかも知れませんので気をつけた方がいいですよ。
ところで、この葛輝夫の出身地は、「烏傷」(うしょう。カラスの傷)というヘンな地名ですが、これには何かイワレがあるのかな?
「烏傷」は漢の時代に会稽郡を構成する県の一つに名づけられたレッキとした公式の県名です。
南朝宋・劉敬叔の「異苑」にいう、
東陽顔烏、以淳孝著聞。
東陽の顔烏、淳孝を以て著聞せり。
会稽・東陽の顔烏(がん・う)というひとは、たいへんな孝行者というので有名であった。
親が亡くなった後、人を雇う資力が無いため、手づから鋤鍬を取ってその墳墓を築こうとした。
すると、
有群烏、助銜土塊為墳。
群烏有りて、土塊を助け銜(くわ)えて墳を為せり。
(彼の名前と同じ)カラスたちが群れてやってきて、土のかたまりを咥えてきて、墳墓づくりを手伝ってくれた。
烏口皆傷一境。
烏口みな一境において傷めり。
このため、その近辺のカラスのくちばしは、みな傷ついたという。
さてさて、
以為顔烏至孝、故致慈烏、欲令孝声遠聞。又名其県曰烏傷矣。
おもえらく、顔烏の至孝なるが故に慈烏を致し、孝声をして遠聞せしめんと欲するならん。又、その県に名づけて「烏傷」と曰えり。
おそらくこれは、顔烏があまりにもすごい孝行者であったので、(その徳が)優しいカラスたちに働きかけて、孝行の評判を遠いところにまで伝え聞かせようとしたのではないだろうか。また、このことから、その近辺の区域は「カラスの(くちばしの)傷ついた県」と名づけられたのである。
なんだそうです。
みなさん、親孝行は大切でちゅよー。
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これら古人の記録により、蝶は悪いやつでカラスはいいやつだ、ということがわかりました。