平成26年7月16日(水)  目次へ  前回に戻る

 

今日は立食形式でちた。○会○員さんや南極観測隊のひともいたよ。ローストビーフおいしうございました。ケーキおいしうございました。スパゲティおいしうございました。食べ過ぎているのに、さらに食べ物を漁るように食った。腹が苦しい。一方、昨日よりも少量のビールをほんとに舐めただけ、なのにまたアタマ痛い。

腹とアタマのダブルパンチである。

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常見鷙鳥少而凡鳥多。

常に見るに鷙鳥少なくして凡鳥多し。

普段見ていると、この世界には猛禽類は少なく、凡庸な鳥はたくさんいるものだ。

このことについて、小生(←肝冷斎にあらず、宋のひと李季可さん)長らく思ってきましたことには、

以鷙之害物、天不使之蕃滋。

鷙の物を害するを以て、天これをして蕃滋(ばんじ)せしめざるなり、と。

猛禽類がほかのドウブツを殺してしまうので、造物主は猛禽類が生み殖えていかないようにしたのであろう、と。

しかしながら、小生は最近この山中の家を求め移り住んできて、考えが変わった。

山中において鳥たちのすがたをよくよく観察しておりますと、

鷙所獲一二、便可飽終日。

鷙は獲るところ一二にして、すなわち終日に飽くべし。

猛禽類はエモノを一日に一匹か二匹捕まえれば、それで十分満足している。

かれらは足るを知り、すべてを捕りつくしてしまわない仁愛と義侠を持っているといえよう。

ところが凡庸な鳥どもはどうであろうか。

欺鶵敗卵、逐蛾啄蠧、所残不可紀。

鶵を欺き卵を敗り、蛾を逐い蠧を啄ばみ、残するところ紀すべからず。

ほかの鳥の巣に自分のヒナを紛れ込ませ、そのヒナは巣の中のタマゴを蹴落としてしまうものがいる。そうでないものもエサとしての蛾を追いかけ、木の中のキクイムシをほじくりだして食べてしまう。その残虐なること、文章で表しきれないほどだ。

それほどエサを得ているのに、

而常有飢色。

而(しかる)に常に飢色有るなり。

それでもなお、いつもハラを減らしてエサを探し求めているのだ。

豈復有蒙其義者。

あにまたその義を蒙る者有らんや。

(猛禽類と違い、凡庸な鳥からは)その義侠心のおかげを蒙った、というようなイキモノは何一つもない。

さて。

これは単に鳥のことを言うたのではありません。ひとに当て嵌められるように語った喩え話である。どうぞよくよく自らの身に当ててお考えいただき、仁愛と義侠を保持して生きていっていただきたい。

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だそうです。宋・李季可「松窗百説」より。

わたし(←肝冷斎)の今日の立食パーティ食いまくりの振舞いを見れば、わたし(やSやSやH)が凡庸な鳥の方であることは明白である。一方、「昼にいい弁当食ったから晩飯はもう要らんわ」と杯だけ乾して軽めに引き上げたOZさんなどはさぞかし猛禽類に該たるのかな?(年をとると食が細くなって当然ですよ、けけけー)

李季可は南宋のはじめのころ、江蘇・永嘉のひと、博学多識にして「王佐の才」(王者を輔佐する才能)有りとうたわれた傑物であったが、その計略は現実に用いられる場無く、ひるがえって著述に専心したという。この本にはこんな話があと100−1=99もあります。しばらくはネタに困りません。

 

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