今日は平日ですが会社には行かず(身代わりを行かせた)さぼってうろうろしておりまちた。うっしっしー。 え? つけひげ? 会社に行かない日はコドモのままでいいのでつけていませんよ。
うろうろしていたところ、とある山蔭の墓地で、棺を埋めているひとたちがいた。
「お、葬式だぜ、かっちょいい」
とにやにやしながら覗いておりますと、おっさん(このとき四十台後半)が祭文を読み始めまちたよ。
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―――本日、いとこの敬遠のために日を占い、今日がよい日ということで、ここにお前を葬る。長くこの大地に安らかに眠れ。おまえとのこれまでの付き合い、ともに過ごした日々のことを思えば、おまえが行ってしまってもう帰ってこないことが悲しい。感情はしゅわしゅわとわたしの胸を砕き、涙はじわじわとまなこに溢れる。
乃以園果時醪、祖其将行。嗚呼哀哉。
すなわち園果・時醪(じろう)を以て、そのまさに行かんとするに祖す。嗚呼、哀なるかな。
ここに、我が畑に実った果実と、わが家で醸したばかりの濁り酒を以て、おまえが行ってしまおうとするはなむけの祭をおこなうのだ。
ああ、かなしいではないか!
(・・・途中、経歴や若いころの交友について述べた部分は省略します。)
都会での宮仕えを辞めて郷里に帰ってきてとき、そのことを最も理解してくれたのは同じ村に住んでいたおまえであった。
毎憶有秋、我将其刈、与汝偕行、舫舟同済。
つねに憶う、有秋に我まさにそれ刈らんとして、汝とともに行き、舟を舫(なら)べて同済せしことを。
わたしは、いつも思い出す。
秋の稔りのころ、わたしは収穫のために、おまえとともに我が家の田に向かい、小舟を並べて川を渡ったことを。
三宿水濱、楽飲川界。静月澄高、温風始逝。
水濱に三宿し、川界に楽飲す。静月澄みて高く、温風はじめて逝けり。
水辺に三泊して、川のほとりで楽しく飲んだものであった。清らかな月が澄んだ光を放って高くにあり、まだあたたかな風が夕べに吹いてきたものであった。
そのとき、おまえは
撫杯而言、物久人脆。
杯を撫でて言う、「物久しくして人脆し」と。
さかずきを撫でながら言った、
「山水風月は永遠の存在だが、人間なんてのはあっという間だね」
と。
ああ。
奈何吾弟、先我離世。事不可尋、思亦何極。
いかなればか吾が弟、我に先んじて世に離る。事は尋ぬるべからざるも、思いまた何ぞ極まらん。
どうしてこんなことになったのか。年下のおまえが、わたしより先にこの世から離れて行ったのだ!
このことを追及しても答えなど無いだろうが、この悲しみの思いを終わらせることもできやしない。
葬列の旗とかを見て、この文章を作っていたらまた涙が落ち始めた。
神其有知、昭余中誠。嗚呼哀哉。
神にそれ知る有らば、余が中誠を昭らかにせん。嗚呼、哀なるかな。
たましいというものに現世のことがわかるのであれば、わたしの心の中の気持ちをまざまざと理解してくれるであろう。
ああ、かなしいではないか!
・・・おっさんは読み終えて、ぶうぶう泣きながら帰っていきました。葬列に参加していたひとたちも泣く泣く帰って行った。
しかして生者にはまた新しい日々がはじまる。
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晋〜宋・陶淵明「祭従弟敬遠文」(いとこの敬遠を祭るの文)。すごく近代的な感じの感情が表現されておりますね。チュウゴクのひとは六朝時代はこんなひとたちもいるのに、その後どうしてしまったのだろうか・・・。
陶敬遠というひとは淵明より十六若かったそうですが、父同士も母同士も兄弟姉妹、という関係で幼いころ(淵明の方はもう青年ですが)から親しく、学問や趣味の傾向も似ており、淵明が隠棲したときに最も喜んでくれた親戚であった、ということだが、東晋の末、義熙七年(411)、数え年三十一で死んだのである。ちなみに省略した部分も読みたいひとは「陶靖節集」にあたって読んでみてくだちゃい。あるいは岩波文庫赤8−2「陶淵明全集・下」に松枝茂夫先生等のすばらしい訳つきで載っているからそちらでもOK。
まあでも、その後まもなく陶淵明のおっさんも死にましたし、おいらももうすぐ、さかずきが壊れるように土に還る・・・。明日か明後日か、長くても数十年。ips細胞のすごい力を借りても百年ぐらいかな?