今日は一日中頭の頭痛が痛くてかなわず、夕方頭痛薬呑んだらてきめんに居眠りしてしまい、たたき起こされてもっと頭痛い。しかもたたき起こされたところの要件は来週も続く悪夢の種となるような事件で、暗澹としつつ帰ってきた。これはどうあっても土日の間に世界が滅んでもらわねばならなくなってきましたぞー。わひゃひゃひゃ。
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週末は家族団欒の方も多いと思いますので(←そんなひとがこのHP読むはずはないのだが)、家族の間で話題にできるような、人間らしいお話をいたします。
周の恵王二十一年(魯・僖公四年、前656)のこと、覇者・斉の桓公が諸侯の軍を率いて楚と対峙した。・・・結局、楚が屈服し、河南の召陵の地で各国の代表は犠牲獣の血を啜り、和平のための「盟」を行って、斉を中心とする連合軍は解散することになったのだが―――。
このとき、陳の大夫・轅濤塗(えんとうと)が鄭の大夫・申侯に告げて言うに、
師出于陳、鄭之間、国必甚病。若出于東方、観兵于東夷、循海而帰、其可也。
師、陳・鄭の間に出でなば、国必ず甚だ病(へい)せん。もし東方に出でて、東夷に観兵し、海に循(した)がいて帰らば、それ可ならん。
斉を中心とした軍が、わが陳の國とあなたの鄭の國の間を通って北の方に帰るとなると、われらの国は宿所を用意したり兵食の供給などでたいへん困ることになりましょう。一方、軍が東の方をぐるりと回って、東方の蛮族どもに中華の軍威を見せつけながら、海に沿って山東の方に帰ってもらえるなら、いろんな面でベターだと思われませぬかな?
「ほう、ほう」
申侯というひとはもと楚の國の寵臣であったが、鄭に亡命して今は鄭伯の信任篤いというキレ者。隣り合う鄭と陳、普段は決して良好な関係ではないが、今現在はともに斉の同盟国として連合軍に参加している仲である。申侯、一瞬ぎろりと鈍く目を光らせたが、すぐににこやかな表情に戻り、
善。
善いかな。
「そのとおりでございますなあ」
と頷いたのであった。
そこで、轅濤塗は斉公の宿所に向かい、
「東海のほとりをめぐってご帰国されてはいかがでしょうか」
と言上した。
「なるほど、東の蛮族どもに威を見せつけようというわけか」
雄心勃勃たる斉桓公は
許之。
これを許す。
その提案を肯った。
そして全軍に「東海のほとりをめぐって戻ることとするので、準備せよ」と触れたのである。
すると、翌日、申侯が斉桓公に目通りを願って「おんおそれながら・・・」と言上するに、
師老矣。
師、老いたり。
わが軍は出征期間も長くなり、疲弊しております。
若出于東方而遇敵、懼不可用也。若出于陳鄭之間、共其資糧非屨。其可也。
もし東方に出でて敵に遇わば、用いるべからざるを懼る。もし陳・鄭の間に出でば、その資・糧・非・屨(く)を共(きょう)す。それ可ならん。
「非」と書きましたが、ほんとは「尸」の右下に「非」を書き入れた字が入ります。「シ」。草鞋のこと。これに対し「屨」(ク)は麻で編んだ鞋をいう。要するにどちらも軽めの「履物」で軍用に使われるもの。
もし東方に出て海のほとりを帰るとしますと、その途上で強敵と遭遇したときに、きちんと戦えるのかどうか心配でございます。これに対し、陳の國と我が鄭の國の間を通ってお帰りいただけるならば、わたしども、軍に対し食糧や履物などを供給することができると思います。こちらの方がよろしいのではないでしょうか。
「しかし、東方をめぐって帰った方がいい、というのは、一方の陳の國の轅濤塗の発案なのじゃぞ・・・」
「え? 轅濤塗どのが? では陳国はわれら正義の同盟軍に食糧や履物を提供するのを渋っておられるのか・・・いや、そんなことはございますまいが・・・」
「わかった。そういうことであったか。よう教えてくれた」
桓公は悦び、申侯には鄭の國の要地である「虎牢」(ころう)を領土とできるように取り計らう(鄭の君主である鄭伯に覇者として指示したのである)とともに、
「陳は同盟に異志あり」
と宣して
執轅濤塗。
轅濤塗を執らう。
「ななな、なんでわしが捕まるのじゃ?」
と驚く轅濤塗を逮捕してしまった。
これが夏のこと。秋に、斉は陳に対して軍を進め、冬には陳の城を取り囲んだ。
陳は謝罪し、今後は斉とその同盟国に全面的に協力することを条件に和睦したので、轅濤塗はようやく釈放されたのである。
釈放され帰国し、国君から謹慎を命じられた轅濤塗、何か思うことがあるのかないのか、一言も弁解することなく蟄居したのであった。
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「春秋左氏伝」僖公四年条より。。
もちろんまだまだ心温まる続きがあります。また明日ね。