やっと融けました。ああ寒かった。肝冷斎でちゅ。凍っている間にココは「寒冷斎」のHPになりましたが、おいらはそのまま「寒冷斎ゴーストライター」の一人となりまちたので、今日はおいらが更新いたしまちゅ。
そういえば、今日は建国記念の日。平成19年の2月11日、おいらは佐賀県の祐徳稲荷神社にお詣りしていて、裏山の無数の赤い鳥居をくぐっていましたが、その間中、神社の拡声器から「くーもにそびゆるたかちほのー」(「紀元節の歌」)がまぼろしの世界の歌のように聞こえていたのを覚えておりまする。
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凍っている間に、やはりまぼろしの世界の歌のように、おいらの耳は次のようなことばを聞いていましたよ。
―――そのころ、ブッダは舎衛国(サーバッティー国)の祇樹(ジェータの林)給孤独園(孤独者に施せるアナータピンディカ長者の園)におられましたのじゃ。
ある晩のこと、
有一天子容色絶妙、於後夜時来詣仏所、稽首仏足、退坐一面。
一天子、容色絶妙なる、後夜時に仏所に来たり詣る有りて、仏足に稽首し、一面に退き坐す。
空のお方がおひとり、まことに見目麗しく形大らかなるが、夜も更けたころにお見えになり、ブッダの静かにお座りになられているお側に来て、ブッダのみ足に頭を触れ、くちづけしたまいて、少しおさがりになったあたりにお座りになられた。
おお。空のお方がブッダのお側に静かにお座りになると、
身諸光明遍照祇樹給孤独園。
身よりのもろもろの光明、祇樹給孤独園をあまねく照らせり。
そのおからだから発せられるかすかな光が、目を射るほどの光となって「孤独者に施せられたるジェータの林の園」一面に広がりわたったのである。
空のお方は、ほのかにほほ笑まれながら、ブッダに問いかけの詩をおうたいかけになられた。
所愛無過子、 愛するところは子に過ぐる無く、
財無貴於牛、 財は牛より貴きは無く、
光明無過日、 光明は日より過ぐる無く、
薩羅無過海。 薩羅は海よりも過ぐる無し。
我が子よりもいとおしいものはございませぬ。
牛よりも貴重なる財物はございませぬ。
太陽よりも光り輝くものはございませぬ。
海よりも広がるものはございませぬ。
「・・・と世間に申しまするなれども、世尊においては如何に?」
言葉とともに紅きくちびるより、香しき息の、林園のうちにかがよいわたる。
ブッダ、ほのかにほほ笑まれながら、お答えの詩をうたわれる。
愛無過於己、 愛するところは己れに過ぐる無く、
財無過於穀、 財は穀に過ぐる無く、
光明無過慧、 光明は慧に過ぐる無く、
薩羅無過見。 薩羅は見に過ぐる無し。
解脱すべき自分より大切なものはございますまい。
増え続ける穀物以上の財物はございますまい。
智慧より光り輝くものはございますまい。
見識より広がるものはございますまい。
「ああ・・・」
空のお方、ブッダの偈を聞きてうっとりと、またほのかにほほ笑まれて歌われる。
久見婆羅門、 久しくして婆羅門を見たり、
逮得般涅槃、 般涅槃(はつねはん)を逮得し、
一切怖已過、 一切の怖れをすでに過ぎて、
永超世恩愛。 世の恩愛を永く超えたり。
久しぶりでこのような智慧ある人にお会いできた。
究極の悟りを得たまい、
あらゆる恐れ・不安をいだくことなく、
人間としての愛の感情など遠く超えておられるのだ。
時彼天子聞仏所説、歓喜随喜、稽首仏足、即没不現。
時にかの天子、仏の説くところを聞き、歓喜し随喜し、仏足に稽首して、すなわち没して現れず。
この時、その空のお方は、ブッダのお答えを聞いて、歓びに震え、またさらに歓びたまいて、ブッダのみ足に頭を触れ、くちづけしたまうた。
そして、そのままお姿を消してしまわれた。
けれど、光と香は、しばらくのあいだ「孤独者に施せられたるジェータの林の園」中に漂うておったのだ。
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南朝宋・求那跋陀羅訳「雑阿含経」巻三十六より。
ありがたいことでございまちゅる。これからは心を入れ替えて、ゴーストライターの一人として、雑巾がけからやらしてもらうことになりまちゅ。