寒冷斎ですじゃ。
今朝は起きる気がないのでふとんの中でぐだぐだしていたら、そのうちに晴れてきた。近所で
「誰だ、こんな太った雪だるま作ったやつは?」
「邪魔だから壊しておしまいよ」
という会話が聞こえたあと、
「うわー、コドモが入っていたー」
と騒いでいるが、わしはやる気ないのでふとんの中でうだうだを続け、昼前になって起きる。久しぶりで10時間以上ふとんの中にいましたな。
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ふとんの中でぬくぬくしながら、寒い地方の詩をくちずさむ。
北風捲地白草折、 北風地を捲いて白草折れ、
胡天八月即飛雪。 胡天八月即ち雪を飛ばす。
北の風が大地を捲き上げるかのように吹き、色あせた草を折りとった。
北方のえびすどもの国の空には、八月にはもう雪が飛びはじめるのだ。
まるで一夜にして春の風が吹き、梨の花が枝という枝に咲いたかとみまがうように、雪が積もったのである。
雪は風に吹かれて空に散り、すだれの中にもカーテンの裏にも吹き込んできて、キツネの毛皮の上着も、錦のふとんも役立たない。
ついには
将軍角弓不得控、 将軍の角弓は控(こう)するを得ず、
都護鉄衣冷難着。 都護(とご)の鉄衣も冷にして着けがたし。
「角弓」は両端に水牛の角を附けた強弓をいい、「控」は弓については弦を張ることをいう。「都護」は唐代に辺境に置かれた総督職であり、「鉄衣」は鉄でつくられた鎧の意。
将軍の角つきの弓は(低温のため膏が凍って)弦を張ることもできず、
総督の鉄の鎧は冷え切ってしまって身につけることもできない。
ほどである。
タクラマカンの湖には一面に千丈もの厚さの氷が張りつめ、雲は薄黒く千里のはてまで固まってしまっているのだ。
だが―――
今日はきみが都に呼び返され、旅立つ大切な日だ。
中軍置酒飲帰客。 中軍に酒を置きて帰らんとする客に飲ましむ。
胡琴琵琶与羌笛。 胡琴、琵琶と羌笛と。
今日は軍営の中で酒壺を開き、都に還るきみと酌み交わすのだ。
奏するは胡人の琴、琵琶、羌族の笛である。
紛紛暮雪下轅門、 紛々たる暮雪は轅門に下り、
風掣紅旗凍不翻。 風は紅旗を掣(ひ)くも凍りて翻らず。
「轅門」(えんもん)というのは、軍隊が宿営する際には戦車や輜重車で壁を作り、その轅(ながえ。馬などに牽引させる綱をつなぐ横棒)を向い合せにして通路にする。この通路のことである。「紅旗」は軍旗。
びゅうびゅうと夕ぐれの雪は、軍営を取り囲む戦車にも降りしきり、
風は強く軍営の旗に吹きつけるのだが、旗は凍ってしまってぴくりとも動かない。
寒そうですね。
さてさて。
翌日の朝(という設定になるのかな)。
輪台東門送君去、 輪台の東門にて君の去るを送れば、
去時雪満天山路。 去る時、雪は天山の路に満ちぬ。
山廻路転不見君、 山はめぐり、路は転じて君を見ず、
雪上空留馬行処。 雪上むなしく留む馬行の処。
輪台の地の東の門で、都・長安につながる街道を行こうとするきみを見送る。
きみが行くとき、天山街道には雪がまんまんと降り積もっていた。
山のかなたへ街道が曲がっていくあたり、馬上のきみの姿は見えなくなった。
あとには雪の上に、きみの馬のつけていった足跡だけが残っている。
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唐・岑参「白雪歌、送武判官帰京」(白雪の歌 武判官の京に帰るを送る)であります(「岑嘉州集」より)。作者の岑参(715?〜770)は、天宝十三年(754)から十四年にかけて、伊西北庭節度判官として新疆・孚遠の地に赴いていたころに、そこから長安に向けた公路の要地である新疆・輪台に出向いたことが何度かあったそうで、そのころの作ということである。やっぱり雪が降ると寒いようですね。なお、この詩、岑参のほかの歌行体詩の多くと同じく、最後の四句だけが本来言いたい送別のことばで、それ以前の詩句は想像も交えたロマンチックな西域案内みたいになっており、おそらく武判官のような「詩を贈られたひと」が長安に帰って、
「西域とはこんなところでしたなあ・・・。なお、これを書いたのは岑参さんですよ」
とジャーナリスティックに宣伝してもらうための「報告」であったのだろう、とは鈴木修次氏の推測である(「岑参論」(1969)(「唐代詩人論」(二)(講談社学術文庫1979)所収)による)。
と、そのとき―――どんどん、と扉を叩く音がする。
「なんですかな」
門を開いてみると、
「寒冷斎さん、これはお宅の肝冷斎ちゃんざましょ」
「雪の中で凍っていたので届けておきますよ」
「こどもたちが真似をするとマズイので、こんなことさせないでください」
と、近所のひとたちがかちかちに凍った肝冷斎を置いていきました。