本日もなんとか生きていた。しかしまだ月曜日。今週どうやって生き抜くことができるのだろうか。
↓こんなふうに途中を「中抜き」できればいいのですが・・・。
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江戸・本所(現・江東区)の松井町に
有一賈豎。
一賈豎有り。
「賈豎」(こじゅ)は小商人、小商いの徒、と解説されていますが、ここでは「商家の小僧」すなわち「丁稚」と訳してしまいたいと思います。
丁稚がおった。
この丁稚、
曾為狐精所憑。
かつて狐精の憑るところと為る。
以前から、狐の精に憑依されていた。
「狐精の憑依」を「キツネツキ」と訳しておきます。
祈呪百方、経年不除。
祈呪百方するも、経年除せず。
いろんなお祈りやお呪いを行ったが、何年経っても治らなかった。
ある日、この丁稚、突然
蹶起大呼曰、震来矣、震来矣。倉皇走出。
蹶起し大いに呼ばわりて曰く、「震来たる、震来たる」と。倉皇として走り出でたり。
ぴょーん、と高く飛び上がると、大声で
「地震が来るぞーー! 地震が来るぞーー!」
と叫び喚いて、大慌てで表に飛び出した。
家人捕縛幽之一室、則狐精已脱離矣。
家人、捕縛してこれを一室に幽するに、すなわち狐精すでに脱離せり。
家のひとたちが捕まえて縛り上げ、座敷牢に入れたところ、キツネが落ちて正気に戻っていた。
「長く苦しんでいたがついに正気になった」
と本人、家人ひとしく喜んでいたが、その翌日―――安政二年(1855)十月二日。
都下大震、人畜死傷、不暇悉挙。
都下大いに震い、人畜死傷すること、悉く挙ぐるに暇あらざりき。
江戸一帯は大いなる地震に揺れ、人間・家畜の死んだり傷つくこと、すべてをあげることはできないほどであった。
安政大地震である。
蓋狐性極多疑、故察災未然、予避之耳。
けだし狐の性きわめて多疑、故に災を未然に察し、あらかじめこれを避くるのみならん。
すなわち、キツネというのはたいへん疑い深いドウブツであるから、何らかの前兆を見つけて大災害を予測し、事前に江戸を離れたのであろう。
その証拠に、
震歇而狐還、復憑於賈豎如初云。
震歇(や)みて狐還り、また賈豎に憑くこと初めの如しと云えり。
地震が終わってしばらくするとキツネがまた帰ってきたらしく、もとどおりに丁稚はキツネツキになった、ということである。
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残念でしたねー。菊池三溪「本朝虞初新誌」巻中より。菊地三溪、名は純、幕末〜明治の漢文学者、紀伊の人。紀州藩儒として江戸に出府、安政のころは幕府儒員に遷って昌平坂学問所に勤めていたらしい。
明治年間に学海居士・依田百川評して曰く、
反是絶倒、有此一著乃成語。
反ってこれ絶倒、この一著(いっちゃく)有りて語を成せり。
おそろしい地震の話だというのに、大笑い。オチがついてお話になった。
と。
この「キツネ」が地震の間だけどこかに行ってしまっていたように、おいらも明日から金曜日まで「中抜き」して土曜日(正確には金曜日の夕方ぐらい)に戻ってきて元通りに、
初めの如し。
という状況になれたらいい、のですがね・・・。
ちなみに、たしかにこれはオチのついた笑い話みたいになっていますが、同書の前後には同じ地震での凄惨な物語がつづられております。・・・母親が子どもを連れて逃げようとして、子どもが家の下敷きになった。子どもの腕は指が食い込むまでに母親の腕をつかんでいるが、どうやっても引きずり出せない。そこへ火が回ってきたので、ついに隣人たちは母親を助けるために子どもの腕を斬りおとした。しかし指が母親の腕に食い込んでいて、そこから化膿して母親も危篤である・・・とか、そんなやつ。
悲痛な物語は、漢文で読むと一段と余韻があるので、ぞくぞくしてくるのである・・・。